文化 市史編纂(さん)だより わがまち歴史散歩 Vol.170

■北摂平家物語
◇幻の“鵯越(ひよどりごえ)の「坂落し」”
都落ちして一の谷に陣取る平氏軍。背後の崖から源義経率いる騎馬武者が急襲。驚き慌てた平氏軍は船で退散。
『平家物語』でも印象的な戦闘シーンの一つで、源義経の天才的戦術が発揮された、一の谷の合戦、鵯越の「坂落し」です。その後は屋島、壇ノ浦と平氏を滅亡に追い込む、重要な戦いでもありました。しかし、実際の戦闘とは様相が異なるようです。
寿永3(1184)年1月に木曾義仲を破って入京した鎌倉軍は翌月、福原(神戸市兵庫区)の平氏を挟撃すべく、大手の源範頼(義経兄)が東から山陽道を進み、からめ手の義経が丹波路から印南野を経て西から山陽道に入ります。同時代史料によると、東は生田の森(同市中央区)で範頼が、西は一の谷(同市須磨区)で義経が、北は山の手の「城郭」(福原)で摂津源氏の多田行綱が交戦し、「城中」の平氏軍が総崩れとなりました。
実は行綱が福原に迫った「山の手」こそが鵯越で、三木(三木市)から夢野(兵庫区夢野)・兵庫津を結ぶ山中の間道を指します。行綱はからめ手軍の別働隊として鵯越から平氏軍本隊を叩き、勝利に導いたのでした。合戦後、義経は京都に帰還し、からめ手軍総大将として行綱の軍功も自らの手柄と語ったのかもしれません。その情報を基に、地理感覚に疎い『平家物語』の作者が約8キロメートル離れた一の谷と鵯越を同一空間のように描いたと考えられています。実態からいえば、「生田の森・一の谷合戦」と呼ぶのが妥当なのです。

◇「裏切り者」多田行綱
この合戦以前、行綱は本拠地の多田荘(川西市)と京都を往来しながら、院や平氏の下で活動していました。『平家物語』が描く安元3(1177)年の「鹿ヶ谷事件」では、後白河院による平家打倒の謀議を行綱が平清盛に密告したとされますが、右の事実から否定的な見方が有力です。
一方で、「以仁王の令旨」を旗印に治承4(1180)年に平氏打倒を呼びかけ挙兵した同族の源頼政や、義仲・頼朝に対しては冷淡でした。福原や清盛領の山田荘(神戸市北区)と京都の間、昆陽野(伊丹市)や河尻(尼崎市)などの摂津国川辺郡の水陸交通の要衝を勢力圏に置く行綱は、平氏としても敵に回したくない実力者と目されていました。
行綱は都落ちの直前になってようやく平氏を見限ります。生田の森・一の谷合戦では、摂津国惣追捕使(守護)として豊嶋太郎源留ほか摂津武士を動員し、地元の実情を踏まえ平氏に不満を持つ在地武士を「案内者」に立て行軍しました。合戦での勝利に、行綱の実力がいかんなく発揮されたのです。
しかし「走狗煮らる」。平氏打倒を果たした頼朝は、この先の脅威となり得る勢力の排除に乗り出し、奥州藤原氏もろとも義経を滅ぼします。行綱も元暦2(1185)年に頼朝から追放され、後任の惣追捕使の大内惟義が多田荘・多田院御家人の支配を継承しました。行綱は頼朝の歓心を買うためか、頼朝追討を唱えて京都を退去した義経を、河尻で豊島冠者とともに襲撃します。しかしそれも空しく行綱は没落し、摂津源氏の正統は途絶えることとなりました。

(市史編纂委員会委員・松永和浩)

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