- 発行日 :
- 自治体名 : 大阪府池田市
- 広報紙名 : 広報いけだ 2025年6月号
■池田の植木業ー果樹と苗木
◇池田周辺のブランド
北摂地域では池田の盆栽や木部の牡丹(ぼたん)が有名です。しかし他にも江戸から明治時代にかけて、この地域でブランド化した果樹・苗木があります。「池田苗」は細河で産出する苗木のブランド名です。また、「池田荷物」もありました。この地域の米・酒・鉱物(多田の銀・銅)のほか、4〜9月は果物類が中心で、毎日大坂天満方面に出荷されたといいます。この果樹は池田村で産出したものです。
◇池田村の果樹栽培
池田村の古文書に元禄13(1700)年と天保13(1842)年に果樹畑を調査した帳面が残っています。これを比較すると畑地の面積はどちらも八町三反七畝余。栽培する果物も元禄にはミカン・カキ・スモモ・ウメ・ビワ・ナツメ・アンズ・リンゴがあり、天保年間にクリが加わるだけです。このように17世紀の末には果樹畑の面積・栽培種ともに開発は限界に来ているようです。
しかし経営のあり方は大きく変化しています。元禄の段階では20人が畑地を所有しています。帳面には畑地の所有者ごとに記載されています。ところが天保ごろには畑地の所有者が増加しています。そのため帳面の記載方法も畑一筆ごとに人名と果樹の種類を記載するように変化しています。天保ごろにはおそらく畑地と果樹を所有する人と、実際に果樹の世話や収穫を行う人は分離していたのではないでしょうか。池田村の住人が所有権を持つ果樹園を近隣の農家が経営し、何らかの形で利益を分配していたと考えられます。
◇細河の苗木栽培
細河では接ぎ木による植木・苗木栽培が始まりました。元禄14(1701)年刊行の『摂陽群談』や、幕末の『広益国産考』には果樹の解説や細河の植木について紹介しています。そうした書物などによると細郷谷(細河)の住民が「樹を撓接(とうせつ)の術」(接ぎ木の技術)を習得し、樹木(植木)を育て、大坂天満の植木屋に出荷すると記されています。接ぎ木による植木栽培は近隣の加茂村(川西市)や山本村(宝塚市)でも見られました。
東山柿には扁平な大和柿(五所柿)と細長い形の久保柿があり、どちらも大ぶりの実が成ります。また、商品としてのカキは渋柿(柿渋の原料)にせよ甘柿にせよ、大ぶりのカキの実を作るには接ぎ木栽培が必須だったとのことです。角之坊栗は伏尾村産の大ぶりのクリです。なお、クリの用途として材木を採る場合は実を播(ま)けばよいのですが、クリの実を収穫するなら接ぎ木栽培でなければならなかったようです。
このほか、北摂では商品作物用の苗木を栽培し各地に出荷しています。幕末ごろの北摂の果物植木としてミカン、コウゾ、ウメが挙がっていますが、これは苗木と考えられます。紀州ではミカンの産地は苗木を栽培せず、摂津の東野村(伊丹市)から取り寄せています。梅干しの原料となるウメの苗木も東野村から取り寄せています。北摂ではミカンの苗木も接ぎ木で育てました。ウメの用途は観賞用と梅干し用があり、観賞用のウメは木部で植木を育て全国に出荷しました。
この苗木も接ぎ木で育てたものです。また和紙の原料となるコウゾも優良な苗木が選ばれました。木部では赤楮・黒楮・真楮・高楮といったさまざまなコウゾの苗木を作り、九州・中国・四国地方に出荷しました。
このように接ぎ木の技術によって、池田・細河など北摂地域は果実・苗木におけるブランド化に成功したのです。
(市史編纂委員会委員・野高宏之)
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