- 発行日 :
- 自治体名 : 大阪府池田市
- 広報紙名 : 広報いけだ 2025年6月号
■歴史民俗資料館企画展
池田文化と詩歌
―その作品と人―
歴史民俗資料館では、池田の文化について詩歌に着目した企画展を開催しています。同展示の見どころを紹介します。
◇池田の文化における詩歌の位置付け
池田は、古くから交通の要衝として栄え、北摂地域の経済の中心地として発展しました。その繁栄にひかれこの地には画家で俳人の松村月溪(まつむらげっけい)など多くの文人墨客が訪れました。また池田の人々は、来訪した当時一流の文人との交流を通して、自ら絵画、詩歌などの作品を数多く生み出すなど、文化活動を盛んに繰り広げていきました。「池田文化」ともいうべきこの盛り上がりは、室町時代後半に芽生え、江戸時代に発展し、明治時代以降も続いていきました。中でも詩歌については、和歌、連歌、俳諧、近代俳句など多彩な作品が残されています。
◇池田の俳諧―池田の三俳人―
まずは江戸時代の池田の俳諧ですが、月溪が池田で暮らした天明年間(1781~89年)は、月溪の師・与謝蕪村(よさぶそん)の影響下にありました。その流れを受け、文化年間(1804~18年)には俳人の井上遅春(いのうえちしゅん)(1780年ごろ~1821年)、松下一扇(まつしたいっせん)(1794~1830年)、阪上呉老(さかうえごろう)(不詳~1834年)の3人が活躍しました。彼らは、池田の商家の主人であり、大坂の俳壇で名をはせた俳人江森月居(えもりげっきょ)(蕪村門下、1756~1824年)に師事しています。彼らは、『万家人名録(ばんかじんめいろく)』『万家人名録拾遺(しゅうい)』という、有数の俳人を肖像画入りで紹介した書物に載るほどの実力者でした。
3人が池田文化に残した功績は大きく、その1つに遅春の編集による『呉江奇覧(ごこうきらん)』の発行があります。これは「皐月山」など池田の名所旧跡を詠んだ句や歌、漢詩をまとめたものです。紀貫之(きのつらゆき)や牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)といった、いにしえの歌人や連歌師をはじめ、月溪や月居、また遅春や呉老ら池田の人の作品が載りました。
◇近代俳句と池田
池田に暮らす人々は、明治の変革を経ても句作を重ね、句会を開くといった活動を続けました。同じ頃俳句の世界にも変革が起こり、その中心にいた一人が正岡子規(まさおかしき)です。池田では子規門下で、大阪で活躍した青木月斗(あおきげっと)(1879~1949年)や芦田秋双(あしだしゅうそう)(秋窓、1883~1966年)に師事した人たちがいました。例えば、池田に暮らし、戦後俳誌『早春』を復刊させた神田南畝(かんだなんぽ)(1892~1983年)や、池田・内田町(現大和町)に生まれ、戦後に俳誌『筧(かけひ)』を創刊した藤田露紅(ふじたろこう)(1903~86年)です。南畝と露紅は、昭和32(1957)年の池田市俳人連盟の創立にも関わりました。
また、近現代俳句を代表する俳人日野草城(ひのそうじょう)(1901~56年)は、池田が終焉(しゅうえん)の地になりました。俳誌『旗艦(きかん)』を創刊し、昭和初期に広がった俳句の革新運動である新興俳句運動を主導した人物です。ただ、戦後は体調を崩し、仕事も辞め、池田・中之島町(現石橋1丁目)に転居しました。新居の光指す自室を「日光草舎(にっこうそうじゃ)」と名付け、ずっと寝たきりの体ながら、それまでの新興俳句とは違う、温かく慈しみを持った穏やかな作品を生み出しました。そのころ俳誌『青玄(せいげん)』を創刊・主宰し、最後まで句作を続けました。
今回ご紹介した内容は、多彩な池田文化の一部分でしかありません。展示から豊かな池田文化をのぞいていただければと思います。
本紙18ページのミュージアムコーナーに展示案内を掲載しています。併せてご覧ください。
問合せ:歴史民俗資料館
【電話】751・3019