文化 市史編纂(さん)だより わがまち歴史散歩 Vol.173

■能勢の「経房遺書」をめぐる山川正宣と蝸牛廬文庫
◇能勢の古文書
文化14(1817)年、能勢出野村の辻勘兵衛の家から竹筒に納められた古文書が見つかりました。平仮名の多い文章を苦労して読むと、壇ノ浦で死亡したはずの安徳天皇が能勢に隠れ住みこの地で没したこと、この歴史を子孫に残すため、安徳天皇に従って能勢まで来た藤原経房が記録したことなどが書かれていました。

◇知識人・文化人の関心と評価
「経房遺書」と名付けられた古文書は安徳天皇にまつわる内容から江戸や京都で話題になりました。木村蒹葭堂・滝沢馬琴・伴信友・本居太平といった知識人・文化人たちはこの古文書の写本を苦労して手に入れています。「経房遺書」は当時からその内容を疑問視する人が多く、能勢の領主で旗本の能勢氏もこれを取り上げて宣伝することはありませんでした。蒹葭堂だけは、遺書に書かれた土地の様子は今とよく符合しており、好事家の虚言と断定するべきではないと述べています。
この「経房遺書」の原本は明治30年代に所在が分からなくなりましたが、多数の写本が作成されたため、現在の私たちも簡単に内容を知ることができます。

◇山川正宣と蝸牛廬文庫
それでは何故、「経房遺書」は多数の写本が作られたのでしょうか。それは当時の人々が安徳天皇が生き延びたことに疑問を抱きながらも高い関心を示し続けたからです。とりわけ池田の国学者山川正宣(1790~1863)がいくつもの写本を残しています。
正宣は西大和屋という造り酒屋の主人であり、池田村取締役を務める傍ら、賀茂茂季から国学と歌学を学んだ知識人で、六倉園とも名乗っていました。国学者としての業績は神武天皇から平城天皇までの陵墓(天皇の墓)を考証した『山陵考略』がよく知られています。「経房遺書」に関しては文政元(1818)年と3(1820)年の2度、複数の写本を作り、これを元に内容を検討・考証して『握蘭記考証』を作成しています。
幕末から昭和まで代々林田家が収集した資料は蝸牛廬文庫とよばれ、一部は歴史民俗資料館に保存されています。この文庫にも「経房遺書」の写本が約10点、近代以後の関連資料も合わせると20点以上の資料があります。昭和9(1934)年には林田良平は「安徳天皇能勢伝説資料」を写しています。林田家は幕末から昭和まで、「経房遺書」が伝える安徳天皇伝説に深い関心を持っていたことがうかがえます。
「経房遺書」は安徳天皇への関心から多くの知識人の注目を集めたものの偽書とみなされ現在に至っています。しかし、私は「経房遺書」には安徳天皇が生き延びた話とは別の物語が織り込まれていると考えています。

◇地域の歴史を残す努力
能勢が安徳天皇の潜伏先であったことを証明することは極めて困難です。しかし事実ではない、史実とは異なるからといってその記録をなきものにしてしまうと、地域の歴史を明らかにする機会を失うことになります。過去の記録はそこに込められた情報も重要ですが、それとは別に作られたこと自体に歴史的な意味があると私は考えています。
過去に作られた資料を後の時代に引き継いでいくことは大切なことです。複数の写本を作り、知識人に配って意見を求めた正宣の姿勢は、歴史資料を前にしたときの一つのお手本といえます。こうした姿勢を現代の私たちも見習いたいと思います。
(市史編纂委員会委員・野高宏之)

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