文化 ときの輝き

■歴史民俗資料館企画展
「終戦80年 戦争と池田」

歴史民俗資料館では、終戦80年を迎えるのに合わせ、戦時中の本市の様子や人々の暮らしについて紹介する企画展を開催しています。今回は、展示の一部を紹介します。

◇戦争の時代
昭和6(1931)年、満州事変が勃発し、以降、日本は15年続く戦争の時代を突き進むこととなります。昭和12(1937)年には日中戦争が、16(1941)年には日本の真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争が起こり、この池田のまちも戦争に巻き込まれていきました。
日中戦争が勃発した翌年、国家総動員法が成立し、人的・物的資源などあらゆるものが戦争遂行のために統制運用できるようになりました。池田では、昭和15(1940)年8月に砂糖とマッチなどの配給・切符制が始まり、日用品の自由な売買ができなくなりました。また、兵器や弾丸などに転用するため、金属類の供出も行われました。家庭で使用している鍋や門扉、さらには寺の梵鐘(ぼんしょう)まで、その種類は多岐にわたります。
日中戦争が長期化するなか、出征兵士の数も増えていきました。人々は兵士の武運長久を祈り、千人針や寄せ書きをした日の丸の旗を持たせ、盛大に見送りました。また、出征後は慰問袋と呼ばれる袋に慰問の品を入れ、兵士を励ましました。昭和18(1943)年に発行された「池田市報特集号 出征軍人慰問号」もまた、慰問の品として、池田から戦地へ向かった兵士へ送られたものとみられます。ここでは、市内小学生が書いた慰問文が寄せられているほか、同年に市民の寄付によって製造され、「池田市民号」と命名された爆撃機の命名式の様子が伝えられています。

◇池田空襲
太平洋戦争が激化するなか、昭和20(1945)年から米軍による本格的な本土空襲が始まりました。東京や大阪などの大都市だけでなく、池田のまちも空襲の標的となり、現在分かっているだけで9回もの空襲に遭っています。人々は日頃から空襲に備えて防空訓練を行ったり、防空壕(ごう)を掘ったりして備えていましたが、池田では17人の尊い命が失われ、300人以上の人々が罹災(りさい)したとみられています。

◇戦後の池田
昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦しました。しかし、終戦後もなお食糧事情はひっ迫しており、各地に闇市ができて、人々はそこで物々交換をして食べ物を手に入れました。池田では池田駅前と石橋駅(現石橋阪大前駅)前に闇市ができ、そこでは「一個一銭のアメが百倍の一円で売っていた」という証言も残っています。
一方、他の大都市と比べると空襲の被害が少なかった池田では、初の公選市長・武田義三のもと、復興政策が進められるとともに、失業者対策として昭和24(1949)年五月山の開発が進められました。

◇繰り返さない そのために
戦争は多くの人々を傷つけ、多くのまちに甚大な被害を与えました。しかし、今の池田や大阪のまちに、戦争の面影はほとんど残っていません。戦後80年を迎え、戦争を知る世代がごくわずかとなってしまった今、他の誰でもなく今ここにいる私たち自身が、戦争の悲惨さと、平和の尊さを、さらに次の世代へ語り継いでいく必要があるのではないでしょうか。
今回紹介した内容は展示のごく一部です。歴史民俗資料館に足をお運びいただき、戦争の時代の池田について知っていただけると幸いです。
本紙18ページのミュージアムコーナーに展示案内を掲載しています。併せてご覧ください。

問合せ:歴史民俗資料館
【電話】751・3019