文化 市史だより Vol.312

■市史紀要第35集刊行 長楽寺本堂の歴史
市史編さん室が行った調査研究の報告書である『市史紀要』。今年3月に35冊目が刊行されました。
今回はその内容を紹介します。

黒鳥町長楽寺(ちょうらくじ)は、江戸時代初めに、黒鳥村のなかにあった辻村の人びとが支えるお寺として生まれました。また、古くから黒鳥村全体の惣寺(そうでら)であった安明寺(あんみょうじ)が明治時代に廃寺となった後、その法灯を守ってきたお寺の一つでもありました。
長楽寺の歴史を明らかにするために、仏像、建築、古文書、石造物と、様ざまな分野の調査を2012年から十年間かけて行ってきました。『市史紀要第35集』はその成果をまとめた一冊となっています。このなかで明らかになった本堂の建築について紹介しましょう。
本堂が2022年に解体された際、棟札(むなふだ)が発見されました。これが本堂の建築年代についての大きな手掛かりとなりました。
棟札の表面には「奉建立(ごんりゅうたてまつる)長楽寺本堂」「于時延享(ときにえんきょう)三丙寅年(ひのえとらどし)三月吉祥日(きっしょうじつ)」とあり、本堂の建築が延享3年(1746)に始まったことがわかりました。また、棟札の施主として黒川武右衛門重吉・同喜八郎・同武三郎、住持恵順、岸和田桜井新左衛門公らの名前と「惣村中」が記されていました。黒川武右衛門は当時の辻村庄屋であり、ほかの黒川姓の2人もその一統であると思われます。村中の代表として3人の名前が記されたのでしょう。また当時の長楽寺住職は恵順であったこともわかります。岸和田の桜井新左衛門については確かなことはわかりませんが大工の棟梁(とうりょう)であった可能性もあります。
さらに、棟札の裏面をみると、「当長楽寺本堂建立の時、村志(そんし)をもって大工衆振る舞い」とあり、黒鳥村内外の15人の名前が連なって記されていました。上棟式(じょうとうしき)に村内外から大工たちに対して酒や肴(さかな)が振る舞われたことがわかります。上棟式の具体的な様子がわかる貴重な史料といえます。
建立当時、本堂には本尊の毘沙門天(びしゃもんてん)のほか、十一面観音、不動明王、弘法大師など少なくとも5体の仏像が安置されていたと思われます。その後明治末までに5体の仏像が加わりました。この中には黒鳥村の惣寺安明寺が廃寺となった際に移動してきた3体が含まれています。このような経緯は仏像調査や古文書の調査からわかったことです。
長楽寺に残された古文書の調査では手習いの本が複数見つかりました。おそらく寺小屋が開かれ、村の人びとが長楽寺で読み書きを学んだと思われます。
本堂内の什物(じゅうもつ)を調べた結果、多くは村の人びとの寄進によるものであることがわかりました。江戸時代から昭和期に至るまで、多くの人の手によって寺の荘厳(しょうごん)が整えられてきたのです。
このほかにも調査によって多くの成果が得られました。詳しくは『市史紀要第35集』をご覧ください。

問合せ:市史編さん室(いずみの国歴史館内)
【電話】53・0802