文化 市史だより Vol.313

■戦後八十年を迎えて 塩も砂糖も醤油も…配給制の時代
今年は、終戦から八十年となります。当時を知る人が少なくなる中、残された資料が伝えてくれる情報は、ますます貴重なものになっています。

昭和十二(一九三七)年、日中戦争が始まると、政府は戦争遂行のため、様ざまな物資に対する統制を行うようになりました。昭和十五(一九四〇)年六月から、六大都市(東京・大阪・横浜・名古屋・京都・神戸)で砂糖・マッチの切符配給制が始まりました。
対象品目は次第に増え、米や味噌、醤油、塩、石鹸やたばこ、衣類、さらには、野菜や魚などの生鮮食品も配給の対象となりました。配給と言っても、無償で配布されるわけではなく、割り当てられた量を買うことができるというものでした。
写真は、昭和十七(一九四二)に発行された「家庭用鹽(しお)(塩)通帳」の見本です。一世帯に一通配布され、世帯主の名前、住所、世帯人数、購入日と購入量を記入して販売店に持参すると、塩を買うことができるというものです。通帳には、町会長や隣組組長の押印も必要でした。各家庭での購入量を制限することによって、物資の消費を統制しようとしていたことがわかります。
通帳には、一人1か月当たり350グラムとあります。しかし、専売局からの通知には、200グラム(大さじ約10杯分)に変更すると書かれています。現場の混乱や、物資の不足があったのでしょうか。
もうひとつは、「家庭用調味食品購入票」です。こちらも昭和十七年のもので、現在の上代町で配布されたものとみられます。砂糖・味噌・醤油・食用油を購入する際に使うもので、販売所に登録票を提出し、購入時には左の購入券を切り取りました。裏面の説明には、砂糖と味噌・醤油のセット(それぞれの配分が異なる甲・乙・丙の三種)は月ごとの割当量が書かれている一方、食用油は「九月ト十二月ニ配給シマス」とあり、年に二回だけ、割当量も「その都度指示する」としか書かれていません。
戦況が厳しくなると、計画的な配給は難しくなり、品物がなくて配給を受けられないことも多くなっていきます。食べ物が不足し、政府は食糧増産を奨励しました。空地を農園に転用することが求められ、市内でも多くの小学校の運動場が畑になりました。
終戦後は、外地から引き揚げてきた人や、復員兵も増加し、物資不足が一層深刻になりました。当時の和泉町で「非常米配給券」が発行され、各町会を通して特に困窮している家庭に配布するよう通達された記録が残っています。
信太の森ふるさと館では、8月6日(水)から夏季特別展「軍隊と市民の暮らし–信太地域と戦争–」を行います(23ページ別掲)。ここで取り上げた資料も展示していますので、この機会にお越しください。

※写真は本紙をご覧ください。

問合せ:信太の森ふるさと館
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