- 発行日 :
- 自治体名 : 山口県岩国市
- 広報紙名 : 広報いわくに 令和7年6月15日号
■吉川広家とみみずくの手水鉢(ちょうずばち)
今年は、初代岩国領主である吉川広家の没後400年という節目の年にあたります。広家は、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いの後に岩国へ移り、岩国城の築城や城下町の整備、河川改修や干拓を行うなど、現在の岩国市の基礎を築いたとされる人物です。そのため市内には広家ゆかりの遺構や遺物が多く遺されていますが、今回はその中から横山の吉川家墓所にある、みみずくの手水鉢(※1)について紹介します。
吉川家墓所は寛文7(1667)年、2代岩国領主の吉川広正の墓所として、3代岩国領主の吉川広嘉によって整備されました。広家の墓は少し高い場所に位置していますが、墓石も比較的新しく、当初からの位置であるかも含め、詳細がはっきりしていません。みみずくの手水鉢は現在、この広家の墓の近くに立っています。
みみずくの手水鉢は、広島藩浅野家の家老を務めた上田宗箇(うえだそうこ)が広家に贈ったものと伝えられています。武人としてだけでなく、茶人としても知られていた宗箇は、茶道を通じて広家と交流がありました。「錦川志(きんせんし)(※2)」によると、元和9(1623)年に通津の本呂尾(もどろお)へ隠居した広家のもとを宗箇が訪れ、お茶を楽しんだことが記されています。
また広家が枝垂桜(しだれざくら)を宗箇に贈ったお礼として、みみずくの手水鉢を宗箇が広家へ贈ったともあります。その後、手水鉢は今津の浄念寺に置かれていましたが、明治時代後期に吉川家へ戻り、広家の墓の横に置かれました。
なお「錦川志」には、三方を山に囲まれ、残りの一方が海を臨む景色が鎌倉に似ているとして、広家が通津の地を気に入っていたことも記されています。
題材となっているみみずくは、流行病であった疱瘡(ほうそう)(天然痘)を退ける生き物として江戸時代の日本でよく描かれてきました。また暗闇でも目が見える、首がよく回るといった特徴から、現在も縁起の良い動物とされています。
広家没後400年の節目の年に、市内にある広家のゆかりの地を巡ってみてはいかがでしょうか。
※1 手を洗うための水を入れるもので、寺社や茶室などに置かれる
※2 文久2(1862)年に岩国領の山田府生が著したもので、錦川沿岸の風物が記されている
▽岩国徴古館(いわくにちょうこかん)
昭和20年に旧岩国藩主吉川家によって建てられ、その後岩国市に移管された市立の博物館
住所:横山二丁目7-19
【電話】41-0452
休館日:月曜(祝日の場合はその翌日)