- 発行日 :
- 自治体名 : 愛媛県内子町
- 広報紙名 : 広報uchiko 2025年8月号
想像して、考えて、―戦後80 年―
平和の尊さや戦争を二度と起こしてはいけない、ということは多くの人が理解していることでしょう。でも、今も世界のどこかで戦争は起こっています。
戦後80年。戦争や当時の暮らしを経験した人はどんどん減っている今、私たちにできることはどんなことでしょうか。貴重な証言と戦争遺品から、戦争とは、平和とは何か、想像して、考えてください。
■語り継がれる記憶(1)
子どもや孫たちには私が経験した思いは絶対にしてほしくない
竹内ハマ子さん(88)〔上川中央〕
グラマンに震えながら病院の母へ届けた梅干し 心から笑うことはほとんどありませんでした
「千人針」は弾除けのお守りで、出兵する兵隊さんが腹などに巻いて戦っていました。白い布に千人が一針ずつ赤い玉結びを縫い、地域のみんなで協力して作っていました。私も小学生だった頃、何本も縫った記憶があります。幼いながらにも「無事に帰って来てください」と、一針一針に心を込めました。
戦争が激しくなってきた昭和20年、私は8歳でした。この上川の空にもアメリカの飛行機がひっきりなしに飛んできました。日が陰るくらい数十機が並んで迫ってくるのです。山際まで低空飛行するので、撃たれるのではと、恐ろしくてたまりませんでした。暮らしもどんどん苦しくなり、米は国に供出しなければならず、麦やサツマイモが主食でした。服や下着は着物をほどいて作り、ぜいたくは一切できませんでした。
一番つらかったのは、終戦する2カ月前に母が病気で亡くなったことです。戦時中の暮らしがたたったのかもしれません。入院しても薬もなく、治療も何もできないままだったのではないかと思います。まだ40歳の若さでした。最後に会えたのは亡くなる3カ月前。「梅干しが食べたい」という母のために、病院まで8キロの道のりをひたすらに歩いて届けた日でした。空襲警報が鳴り、上空を飛ぶグラマンに震えながらも、やっとの思いで病室に着くと、「よう来てくれた」と母が泣きながら抱きしめてくれたのを覚えています。そして、私の髪を優しく櫛くしでといてくれました。
戦時中はとにかく寂しかったです。大好きな母を失い、家族全員が悲しみに暮れていました。生活するのにみんなが必死で、かまってほしくても言えず、甘えたくても甘えられない――。つらく寂しい子ども時代でした。心から笑うことなど、ほとんどなかったと思います。戦争は多くの命と人の幸せを奪います。子どもや孫たちには私が経験した思いは、絶対にしてほしくないです。
■語り継がれる記憶(2)
家族や周りの人達に感謝し、残りの人生を穏やかに生きたい
清水人榮(ひとえ)さん(98)〔上立山〕
国を守らなければの一心で竹やり訓練 青春時代は暗い戦争の記憶ばかり
戦争が始まったのは10歳のときでした。終戦が18歳だったので8年もの長い間、戦争の中で暮らしました。中でも鮮明に覚えているのは、内子に爆弾が落とされた日のことです。
あるとき、昼間に空襲警報が鳴り響き、ふと空を見上げるとアメリカの飛行機が飛んできていました。B29を中心にして隊列を組み、「グーングーン」と不気味な音を立ててやってきます。家には病気で寝たきりの姉がいました。私は急いで姉を背負い、防空頭巾をかぶり、裏山まで走りました。木の隙間から、飛行機が過ぎ去るのをじっと見ていると、一機が急降下。どうしたのだろうと思った瞬間、「ドーン」とすさまじい爆音が響きました。知清河原に爆弾が落ち、大きな穴が開いたと、後から聞きました。敵国の力と戦争の怖さを思い知った出来事で、どうか早く終わってほしいと願わずにはいられませんでした。
しかし、戦争は大きくなる一方でした。小学校では空襲警報がたびたび鳴り、落ち着いて勉強することもできません。高学年になると勤労奉仕が始まり、出征した兵隊さんの家を訪ねては、麦刈りや炭焼きなどの手伝いをしました。女学校を卒業するころにはアメリカ兵の上陸に備え「ヤー、ヤー」と叫びながら竹槍の訓練を受けていました。こんなもので勝てるはずがないのに、当時は「国を守らなければ」と一生懸命でした。
終戦の日はラジオの前で、天皇陛下のお言葉に耳を澄ませました。長く続いた戦争がやっと終わったという安堵と、負けた悲しみが入り混じり、張り詰めていた糸がぽつんと切れたような気持ちでした。
私の青春時代は暗い戦争の記憶ばかりです。あれから80年、こんなにも豊かな時代が来るなんて、当時の私には想像もできませんでした。大事にしてくれる家族や周りの人たちに感謝し、残りの人生を穏やかに生きていきたいです。
■語り継がれる記憶(3)
子どもさえ命をかけた時代のことをどうか忘れないで
柴田勇(いさむ)さん(94)〔立川中央〕
「国のために死ぬことが名誉」と信じ振り返って思うのは「教育の恐ろしさ」
「国のために戦おう」と14歳で海軍に志願しました。鹿児島県の鹿屋海軍航空基地に配属され、上官からの命令を各部署へ伝える役割をしていました。基地は沖縄に近く、米軍機が毎日のように襲来します。「バリバリバリーッ」と撃ち込まれた機銃掃射に、多くの戦友が犠牲となりました。私も機関銃の弾が体のすぐ横をかすめ、命からがら防空壕(ごう)に飛び込んだこともあります。
鹿屋には特攻隊が出撃する飛行場がありました。多くの若い兵士たちが片道分の燃料だけを戦闘機に積み、爆弾とともに飛び立って行く姿を何度も見送りました。特攻隊員の気持ちを考えると、万感の思いがこみ上げてきて、手を合わさずにはいられませんでした。
当時を振り返って思うのは「教育の恐ろしさ」です。あの頃の私は「国のために死ぬことが名誉」だと信じて疑わず、恐怖すら感じていませんでした。仲間が撃たれたときも「治ってほしい」とは思っても、「戦争はいけない」「惨めなことだ」という気持ちは、はなからありませんでした。とても悲しいことです。私たちが朝夕に口ずさんでいた軍歌には、「死んで帰れ」という歌詞があり、それを励ましの言葉として受け止めていました。今では信じられないことですが、それが当たり前の時代だったのです。
終戦後、立川の土を踏みしめたときは、思わず涙があふれました。母は生きて帰った私を見て、地面に座り込んで泣き崩れていました。14歳の子どもを戦地に送り出した親の気持ちを想像すると、胸が痛みます。
人は決して一人では生きていけません。これからの世の中をつくる若い人たちには、人とのつながりを大切にし、平和の尊さを心に刻んで生きてほしいです。子どもでさえ国のために命をかけた時代があったことを、どうか忘れないでください。二度とあのような時代をつくってはいけません。
■語り継がれる記憶(4)
深夜1時の空襲警報 今も目に焼き付く火の海の市街地
重岡愛子(あいこ)さん(98)〔内子13〕
18歳のとき松山空襲を体験しました。昭和20年7月26日、愛媛青年師範学校に通っていた私は、寮で就寝していました。
深夜1時ごろ突然の空襲警報で目が覚め、逃げる準備をしていたら「ザーッ」と、ものすごい音で焼夷(しょうい)弾が降ってきました。学校が燃えては大変と無我夢中で焼夷弾を3つほど消したのを覚えています。その後、慌てて近くの防空壕へ友人と逃げ込みました。震えながら戦闘機が去るのを待ち、外に出てみると、松山の市街地は火の海に――。一夜にして焼け野原と化し、いくつもの命が奪われました。幸い学校も寮も焼けずに残り、友人や先生たちは無事でしたが、あの恐ろしい光景は今も目に焼き付いています。
戦争の記憶や光景は忘れることはできません。世界では今も戦争が起こっている国があります。過去にあれほどの痛ましい経験をしたのに、なぜなくならないのか。戦争は尊い命の奪い合い。もう二度と起こらないことを切に願います。
■語り継がれる記憶(5)
義勇軍に入り満州へ 何度も死を覚悟した
久保常義(つねよし)さん(95)〔立川中央〕
私は14歳のころに義勇軍に入り、満州に渡りました。そこではソ連軍の戦車に体当たりするための爆弾を製作。日本兵が爆弾を背負って玉砕する戦法で、私たちもいずれは同じ運命になると、子どもながらに覚悟をしていました。
8月15日、日本の敗戦を知らせる玉音放送を聞いたときは涙がにじみました。自分の命もこれで終わり――。自爆しなければと、爆弾を背負って準備をしていましたが、ソ連との交渉で命をつなぎ留めることができたのです。
終戦後は中国人の農家に、労働者として雇われる毎日が続きました。暗いうちから起こされ、日が落ちるまで農作業に使われる日々。どんなに働いても、タンポポの根にみそを塗っただけの質素な食事だったこともあります。歩けないほど疲れ果て、死の一歩手前だと感じたこともありました。今日を生きるのに精いっぱいで、ふるさとを思う暇はありませんでした。
ようやく立川に戻れたのは16歳の夏。満州では何度も死を覚悟し、振り返ればよう生きとったもんじゃと思います。戦争を体験したからこそ、平和のありがたさを身に染みて感じます。