くらし 戦後八十年に振り返る

今年は戦後八十年の節目となる年です。時間の経過とともに戦争の歴史が少しずつ薄れていく今日、今一度の振り返りを求めて、町内にお住いの清家靜惠さんを訪ねました。清家さんは大正生まれで百歳を超える御年。今回、ご家族同席のもと、昔話をお伺いしました。
清家さんは若くして戦争を経験されました。ご出身は現在の鬼北町ですが、戦前時の国策に従い、希望をもって夫婦で満州に住居を移し、生活をされていました。
満州では、地元の文化を取り入れるわけではなく、日本の文化を持ち込んでの生活であったということです。満州に移り住んだ当初は、日本での生活より豊かな生活ができていたとのことでした。馬、牛、豚、山羊、それに蜂と、広い土地で何でも養っていたとのお話でした。特に蜂蜜をご近所におすそ分けしたことが記憶に残っているとのことでした。
しかし、そんな生活も長くは続かなかったと語ります。戦争の勃発です。戦時の思い出は、当然ながら楽しいものはなく、詳しくは語られませんでしたが、この時にご主人とお子さん二人を亡くされたとのことでした。
そして、満州で終戦を迎えられたのですが、ここからがさらに大変だったとのことでした。満州から日本への引揚げです。敗戦したことで、帰国の道程はまったく人道的といえるものではなかったとのことでした。
多くの引揚者が倒れていく中、身を危険から守るため、顔を真っ黒に塗って病人のふりをして、難を逃れたとのことでした。一人息子の手を取って、命からがら逃げ帰ったとのことで、満州での品は何も残っていないとのことです。帰国できなかった方の遺骨を持ち帰ったとのお話も伺いました。このことで長生きしたのかもしれないと思い返すことがあったそうです。
そして、日本へ戻っても苦労は続いたとのお話でした。戦後の混乱で生活がままならないため、地元まで戻って再婚をしたものの、大阪に出稼ぎに出たとのことです。生活できるだけの貯えを得ることができ、何とか落ち着いたとのことでした。その後もいろいろあったそうですがこれまで楽しく生活できたとのことでした。
最後に、清家さんは、今も食欲旺盛で、百人一首など趣味を楽しんでいます。ごく最近までお酒も嗜んでいたとのことでした。今後もお体を大事にしていただければと思います。ご協力誠にありがとうございました。

次にお話をお伺いしたのは、堤忠子(つつみただこ)さんです。堤さんが生まれた当時、親族間での養子・養女は当たり前のようにありました。堤さんも、もの心がつく前に母親兄弟のもとで養女として育てられました。堤さんは戦争が始まった月日に生まれたため、役所や病院ではよく「戦争の日ですね。」と言われたそうです。
育てのお父様(戦没者:春義さん)は宇和島とフィリピンを船で行き来する仕事に勤めており、お土産の服は、当時の日本では珍しいものが多かったそうで、特に、セーラー服のように真っ赤な服に白いラインが入っている服は記憶にも思い出にも残っているそうです。小学2年生のときに、戦争が始まるため、春義さんが出航すると恐らく、戻って来られないだろうとのことで、下関までお母様と会いに行ったのが、お父様との最後だったそうです。
それから戦争が始まりました。友人と勉強をしていた時に空襲警報が出され、慌てて防空頭巾を被り、庭の大木に身を隠しました。みんなと分かれて隠れ「これで死ぬんだ。みなさんさようなら。」と思っていた矢先、隙間からB29が2機見え「これで死ぬんだ。」と覚悟をしたと振り返ります。また、空襲警報で飛び起き、防空壕に逃げる日々が続きました。しかし、家を守ることが使命という思いがあったお母様とは、一緒に逃げた記憶がなく、近所の方に手を取られ防空壕まで走ったそうです。防空壕近くの地域が爆撃に遭い、地響きが大きくなるたびに「やっぱりもう死ぬんだ。」と思ったそうです。
小学4年生の頃に生まれた地に疎開をし、友人たちと歩いて学校に通いました。それから月日が経ち、自宅に帰ると家が丸焼けになっていました。住む家がなくなり、叔父がいた広見町中野川に帰ることになりました。当時、堤さんを含めて4、5人の子どもたちが疎開していました。
その時の食料は、蒸したさつまいもにメリケン粉のかすをまぶしたものや、いもの茎を食べていました。叔父がお百姓をしていたため、食料を分けてもらいましたが、家族が大切にしていた着物を売ってお金に換え、お米を購入することもありました。当時は食料に困る方々がたくさんいました。「泥棒が入った!」と近所の方に言われ確認すると、子連れの男性がお米を盗んだということでした。今思えば分けてあげればよかったと思いますが、当時はみんな余裕がありませんでした。貴金属は全てお国のために捧げていたため、布を継ぎ接ぎして衣服を着ていました。
小学5年生で終戦を迎えましたが、近所で集まって、子どもたちもうつむいて静かにラジオを聞いていました。涙ぐむ大人もいたそうです。

●堤さんが遺族会の会員として活動する中で、戦後70年の時に講演で聞いた話をお伺いしました。特攻隊のお世話をしていた方のお話です。
特攻隊が出撃する朝、隊員の枕が濡れていた。本当は恐怖に駆られているのだろう。ある隊員が「僕は二度とこの敷居を跨ぐことはできないけれど、蛍になって帰ってくるから、この夏に蛍が飛んで家に入ってきたら僕だと思ってほしい。」と伝え、任務に向かった。翌年の夏、蛍が家の中に入ってきた。「よう帰って来たね。」

●堤さんが昨年体験談として聞いたお話です。
特攻隊の志願をした。出撃には順番があった。次々に僕より優秀な志願者が飛んでいく。ついに僕の番になった。しかし「ここまで!」と言われ、次の出撃を待ったが、それ以降飛ぶことはなかった。立派な人をなくし僕が残った。僕が行くべきだったとずっと悔やんでいる。

最後に、堤さんは「遺族会の部長などを通して、改めて戦争の悲惨さを思い返すことになった。戦争を経験した人が徐々に減っていく中で、遺族となって長い人生を悔やんできた人の思いが無駄にならないように、後世に伝えていかなければならない。」とお話しいただきました。貴重なお話をお伺いさせていただき、また広報紙掲載にご協力いただき、ありがとうございました。

※記事では、お話いただいた方の言葉や表現をできるかぎりそのまま使用するようにしています。