文化 島原城跡が持つ文化財としての価値

(1)築城時期の希少性
慶長20年(1615)の「一国一城令」施行後の元和4年(1618)に築城に着手した島原城は、幕藩体制の根幹をなす諸国の城郭統制下にありながら、新規に築城された全国的にも数少ない存在です。築城した松倉重政公は4万石という小大名でしたが、その本城としては、天守・主要櫓・門は異常に大規模なものであり、一大名の統治拠点という性格に加えて幕府政策との関連性が想定できます。
城郭統制下にありながら、新規に築城された背景には旧豊臣系大名と有明海を共有する地勢条件下にあったこの地域を、幕府が特に重要視していたことを示しています。

(2)島原・天草一揆の舞台
島原・天草一揆が勃発した際、島原半島で蜂起した一揆勢は当初、島原城および城下町に押し寄せ戦闘になりました。島原・天草一揆は、その後の幕府による宗教・貿易政策や大名統制政策に影響を与えた重大事変であり、島原城はその緒戦の舞台になりました。

(3)大規模自然災害の克服
寛政4年(1792)の島原大変は島原城下に甚大な被害をもたらしましたが、島原城は軽微な被害にとどまりました。
島原城の復旧にあたっては領内庄屋たちを中心とした「寸志」の助力も受けながら実施されました。島原城は大規模な自然災害を経験し、復興を遂げた全国でも珍しい城郭です。

(4)築城技術面での希少性
島原城の石垣は実例が少ない1620年代における石垣構築技術の指標的存在として極めて高い価値を持っています。
一方、本丸枡形虎口(ますがたこづち)にみられる巨石を使用した石垣は伝統的な様式に基づく仕様で、「廊下橋」とのセットにより豊臣期の築城観を継承した空間を形成しており、近世城郭に至る過渡的要素を兼ね備えた城郭として希少です。

(5)構造上の卓越性
島原城の「縄張」は、長方形を基調としたシンプルさである一方、枡形空間を駆使した虎口、規則的に配置した外郭線上の櫓群、本丸・二ノ丸を防衛用の空間に特化させるなどの特徴がみられます。
こうした徹底して無駄を省きつつ、防御力を向上させる工夫は、完成期に差し掛かった城郭構造の特徴で、島原城はその典型例です。

(6)高度な治水技術島原城の築城は高度な治水技術の駆使が前提条件となります。本丸南東隅にみられる「屏風折れ」石垣は、本丸の土圧や浸透水、堀水に対して石垣塁面の耐久性を向上させる土木工法上の工夫であり、治水・土木の技術力の高さが分かります。
堀の南東から大手口の地下には、堀の水位調整のために整備された石組竪坑や排水暗渠が残存しています。
また、城内には湧水を利活用するための用水網が完備されており、その様子は現在も機能し続ける石組水路や分流堰・溜枡などの遺構群を介して知ることができます。これらの工夫は、湧水が豊富な島原という地域らしさを示しています。