- 発行日 :
- 自治体名 : 熊本県玉名市
- 広報紙名 : 広報たまな 令和7年6月号
五十嵐勇(いがらしいさむ)氏は、昭和10年海軍航空廠(しょう)から同社への開発要請を受け、超々ジュラルミンの開発に着手。軽くて強いアルミニウム合金の弱点である割れを短時間で起こす実験方法を生み出し、さまざまな物質を加えて割れるかどうかを試すという逆転の発想で、超々ジュラルミンの開発に成功しました。
この超々ジュラルミンは、零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)の主翼の骨組み部分に使われ、速力、上昇力、航続力に優れた機体を生み出しました。終戦後は各地の大学で教授を務めるなど後進の育成に尽力しました。改良された超々ジュラルミンは、スマートフォンのボディーなどさまざまなところで利用されており、現在の私たちの生活を鑑みたとき、その功績は多大なものであると評価されています。
■研究者としての「ものの考え方」
一.後塵を拝さないために、たとえ狭くとも深く、深く掘り下げて各自の領域において世界の尖端を切っていく必要がある。
二.研究者は事実を直視せねばならない。思った結果と矛盾した事実が示されたときのみ進歩があり、発展がある。
三.全て物事は徹底すること。徹底すれば新事実を見出すことができる。真理は理屈ではない。実験の結果が真実である。
四.疑問が生じたとき、どうしてだ、どうしてこうなるのかなど繰返し、徹底的に突っ込んで調べなくては駄目だ。
五十嵐氏の研究手法は、師事した本多光太郎(ほんだこうたろう)博士の手法と同じであり、本多博士から直接「本多イズム」をたたき込まれたと思われます。
参考:『熊本県の近代文化に貢献した人々-功績と人と(令和六年度近代文化功労者)-』熊本県発行
●西暦/五十嵐氏の生涯
1892/月瀬村(現玉名市溝上)東光明寺住職の長男として誕生
1909/熊本県立玉名中学校(現熊本県立玉名高等学校)卒業
1913/広島高等師範学校(現広島大学)卒業後、熊本県立八代中学校(現熊本県立八代高等学校)と台湾の中学校で教鞭を執る
1919/大自然の理法を見る目を養いたいと京都帝国大学(現京都大学)理学部物理学科に入学大学卒業後、住友合資会社(現株式会社UACJ)に入社。東北帝国大学金属材料研究所で金属の父と言われる本多光太郎所長に師事
1935/超々ジュラルミンの開発に着手
1936/超々ジュラルミンの開発に成功
1939/大阪帝国大学(現大阪大学)より工学博士が授与される
1968/勲三等旭日中綬章を受章
1970/勤めていた会社の研究顧問を退き、妻の郷里である熊本市島崎町で余生を送る
1974/第15回本多記念賞を受賞
1986/3月7日、94歳で逝去
2024/令和6年度熊本県近代文化功労者を顕彰
問合せ:文化課
【電話】75-1136