- 発行日 :
- 自治体名 : 熊本県宇土市
- 広報紙名 : 広報うと 令和7年4月号
■国史跡 宇土城跡 発掘調査50年
◇中学校移転計画に伴う発掘調査
昭和49(1974)年1月、市立鶴城中学校の老朽化した校舎の改築にあたって、移転計画が持ち上がりました。移転先の候補は、宇土市神馬(しんめ)町にある独立丘陵「西岡台(にしおかだい)」でした。しかし西岡台は、城跡の推定地として市の史跡に指定されていたため、移転にあたり、その詳細を確認するための発掘調査が宇土市教育委員会によって行われました。
昭和49年3月から51年3月にかけて行われた調査の結果、中世の城に伴う堀跡や建物跡が良好に残るほか、より古い古墳時代(4世紀頃)の溝状遺構(※)など、複数の時代にまたがる良好な資料が地下に埋もれていることが明らかになりました。これらの発見を受けて、遺跡が良好に残る西岡台は保護されることとなり、中学校移転の計画は白紙に戻りました。
鶴城中学校はその後、従来の敷地に一部土地を加えて校舎を改築し、昭和52年9月に新校舎が落成しました。一方、保存されることとなった西岡台は、昭和54年3月12日付けで「宇土城跡」の名で国の史跡に指定されました。
◇市の史跡整備事業
宇土城跡では、その後も史跡整備のための発掘調査が進められ、平成15(2003)年3月までに、当面の調査と整備を終えた史跡の東部を「宇土城跡西岡台公園」の名で史跡公園として供用を開始し、翌年3月に一部土地を追加して現在に至ります。一方、史跡の西部は、その後も現在に至るまで、整備のための実態解明を目的とした発掘調査が続いています。
これまでの発掘調査で、宇土城跡にあるふたつの曲輪(くるわ)(拠点となる防御された平場)を中心に、存在した建物跡や堀をはじめとした防御施設などについて、構造が判明しています。その中には、豊臣秀吉による九州征伐に備えて整備に着手し、途中で放棄されたとみられる未完成の堀跡や、堀を埋めて城としての機能を終わらせる儀礼的行為「城破(しろわ)り」に伴うとみられる痕跡(大量に遺棄された石塔類)など、城の歴史を物語る大変貴重な発見も含まれます。
現在、市教育委員会では、城跡の西端部にある大規模な堀跡について、その構造解明を主目的とした発掘調査を進めています。一般的な中世城郭としては大き過ぎるこの堀は、中世宇土城主である名和(なわ)氏が掘ったものか、豊臣秀吉による九州征伐後に宇土を治め、隣接する城山(しろやま)丘陵に新たな宇土城を築いた小西行長(こにしゆきなが)が掘ったものか、歴史的な位置づけが注目されます。
調査を伴う史跡の整備には大変時間がかかり、特に広大な面積を持つ城跡では、宇土城跡と同じく、約半世紀の長きにわたって整備事業が続いているものも少なくありません。このような史跡整備事業は、研究が進む地域の歴史を、直接見られる資料として広く市民に提供する重要な手段のひとつです。
遠くない将来、整備が完了した宇土城跡の姿を一般に公開できるよう、今年も市の調査・整備事業は続きます。
※古墳時代、宇土周辺を治め、数世代にわたって付近に古墳を築いた首長一族の住まい(居館)の跡と推定。居館を囲む堀だけが発見され、内側にあったとみられる建物などは、後世に城が造られたことにより破壊された可能性が高い
問合せ:文化課 文化係
【電話】23-0156