- 発行日 :
- 自治体名 : 熊本県宇土市
- 広報紙名 : 広報うと 令和7年8月号
■甕棺(かめかん)文化の最南端 宇土
1953(昭和28)年、境目町と善道寺町の境界付近の道路工事で、大型の甕(かめ)形土器が出土しました。通常の煮炊きや貯蔵に用いられた土器と比較しても非常に大型で、遺体を埋葬するための専用の土器です。このような土器を「甕(かめ)棺かん」と呼びます。
◇巨大な土器「甕棺」
甕を埋葬に使う習俗は縄文時代からみられます。当時の甕は小型のものが多く、基本的に子どもの埋葬用だったと考えられています。成人の埋葬用として大型の甕棺を製作するようになったのは、弥生時代前期の終わりごろ(約2500年前ごろ)です。その後、弥生時代中期(約2100年前ごろ)に全盛を迎えますが、弥生時代後期(約1900年前ごろ)には衰退します。
甕棺が出土する地域は、主に福岡県西部や佐賀県の九州北西部に集中しています。有名な出土地としては、漢(かん)(現在の中国)から金印を授けられた「奴(な)国こく」の推定地とされる須玖(すぐ)・岡本遺跡(福岡県春日市)や、巨大なクニがあったと考えられる吉野ケ里(よしのがり)遺跡(佐賀県吉野ヶ里町)などがあります。
◇宇土で見つかった甕棺
宇土では宇土城跡城山遺跡(古城町)、境目(さかいめ)遺跡(境目町)、畑中(はたけなか)遺跡(松山町)、北園(きたぞの)遺跡(松山町)、古保里(こおざと)遺跡(古保里町)、北平(きたびら)遺跡(宮庄町)の6つの遺跡で甕棺が発見されており、宇土半島の付け根にあたる宇土市東部に集中しています。
宇土で出土した甕棺は「須玖式」と「黒髪(くろかみ)式」の2種類があります。須玖式はその名のとおり、須玖・岡本遺跡で出土した甕棺と同系統のもので、赤褐色(せきかっしょく)で大きく、福岡県や佐賀県を中心に出土しています。宇土で発見された甕棺も多くがこの須玖式です。対して、黒髪式は黒褐色(こくかっしょく)で、須玖式の甕棺よりも小型です。出土地は熊本県が中心で、須玖式よりもやや特殊な甕棺です。宇土では北平遺跡で出土しています。
◇宇土は甕棺出土の最南端
熊本県内では、多くの甕棺が見つかっていますが、全てが宇土より北の地域で出土しています。宇土よりも南の八代平野などでは、現在のところ甕棺は見つかっていません。薩摩半島の下小路(しもしょうじ)遺跡(鹿児島県金きん峰ぽう町ちょう)などで飛び地的に出土していますが、海沿いでのみ見つかっているため、陸路ではなく海路を介した北部九州との直接的な交流の結果であると考えられます。
このように、宇土は甕棺のまとまった出土が確認される最南端の地であると言えます。
◇九州北西部とのつながり
分布図を見ると、甕棺の出土地は九州北西部に集中しており、これがそのまま甕棺を使用する文化圏ということになります。
宇土半島の付け根は甕棺がまとまって発見される最南端の地域であり、当時の宇土は九州北西部を中心とする甕棺文化圏の縁辺部であったことが分かります。
多くの甕棺が出土する九州北西部には、有名な「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場するクニの推定地が複数ありますが、同じ甕棺文化圏である宇土にも、これらのクニと交流があったクニの存在が想定されます。
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