くらし ≪特集≫それぞれの戦争

戦後80年を迎えました。かつての戦争は、遠い出来事のように感じられるかもしれません。しかし、その背後には、一人ひとりの忘れえぬ体験と記憶が刻まれています。
私たちの町にも、戦禍を生き抜いた方々が今も暮らしており、その語りは貴重な歴史の証言です。そこには、戦争の現実と、私たちが決して忘れてはならない教訓が詰まっています。これらの証言が、戦争の悲惨さと平和の尊さをあらためて見つめ直すきっかけとなり、その願いをつないでいく一助となれば幸いです。

『満州からの引き揚げ―生き延びることだけを考えた日々―~宿理 一郎さん~』

「生き延びることだけを考えていました」
そう語るのは、敗戦後、混乱する満州から飢えや寒さ、すぐそばにある死と闘いながら、命からがら引き揚げてきた、一人の元少年―宿理一郎さん(91歳)です。

宿理さんが両親と2人の兄弟とともに満州に渡ったのは6歳のとき。昭和14(一九三九)年のことでした。
「親が満州鉄道に勤めることになったためです。満州には12歳まで、小学校から中学1年まで住んでいました。奉天というところです。最初のうちは、ヨーロッパ風の美しい町並みで、本当にいいところでした」
戦争が始まったのは小学校3年生のとき。
「『帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり』という放送を覚えています」
周囲も徐々に戦時色が強まりました。学校では野営や木銃による訓練、さらには戦車に飛び込む訓練まであったといいます。戦況が悪化するにつれ、授業はほとんど行われず、訓練ばかり。宿理さんも“軍国少年”になっていきました。

日本は当初、南方で快進撃を続けていましたが、昭和17(一九四二)年6月のミッドウェー海戦を機に形勢は逆転。しかし、ラジオは「連戦連勝」と偽りの戦果を流し続けていました。
「『転進』なんて言い換えてましたね。でも、グアムの話とかも聞こえてきて、あまりよくないんだな、と薄々感じていました」
食糧事情も悪化し、コメにコーリャンを混ぜたものを食べていたそうです。
「近くの工業地帯はB29の空襲を受けていました。あるとき、近所のデパートに爆弾が落ちて、風圧で家のドアがカギをかけていたのに開いたことがあります。爆弾の破片は本当に怖い。飛んできたら、ひとたまりもありません」

昭和20(一九四五)年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破棄し、満州に侵攻。略奪や暴行が横行し、逃げ遅れた多くの満蒙開拓移民や民間人が過酷な状況に追い込まれました。満蒙開拓移民とは、主に一九三〇年代から四〇年代にかけて国策で満州に渡った日本人移民のことで、約27万人に上ったとされます。戦争激化と敗戦の混乱の中で、約8万人が命を落としました。
「開拓団の人たちは本当にかわいそうでした。奉天へ逃げてくる途中、襲われたり、飢えや寒さで亡くなったりした人がいたと聞きました。チフスも流行していたようです」

◆終戦と引き揚げの混乱
玉音放送のあった昭和20(一九四五)年8月15日のことも、鮮明に覚えているといいます。
「ソ連軍から避難するため、奉天駅に集合することになり、母と兄妹と一緒に行きました。駅に着いたところで『重大放送がある』と足止めされ、広場で玉音放送を聞きました。(何を言っているかわからなかったという人も多いですが)私は、『堪え難きを耐え、忍び難きを忍び』と聞き、戦争に負けたんだと理解できました。がっかりして、家に戻る足取りがとても重かったのを覚えています。満州はその日、とても良く晴れていました」
その後も、満州は歴史に翻弄されます。日本軍が撤退した後、国共内戦が本格化し、宿理さんは中国共産党から家を追われることになりました。
「日本への引き揚げができたのは、敗戦の翌年7月。それまでの1年間は、売れるものは売って食糧を確保する日々でした。敗戦後、日本人と中国人の立場が逆転し、混乱の中で生き延びるのが精いっぱいでした」
さらに追い打ちをかけたのが、満州の冬。零下30度にもなる極寒のなか、多くの命が失われました。
「幸い、父が以前から“中国人とは仲良く”と心がけていたので、中国の人から暖房用の石炭を分けてもらい、本当に助かりました。とりわけ張(ちょう)さんという方には助けられました」

昭和21(一九四六)年7月に宿理さん家族が引き揚げ船に乗った大連近郊・葫蘆島(コロ島)では、極度の困窮のなか、子どもを養うことができず、やむなく現地の中国人に預けられるケースもありました。―ここでも、「中国残留日本人孤児」と呼ばれる人々が生まれたのです。
引き揚げ船の環境は過酷で、船底にすし詰め状態。体調を崩し、途中で2~3人が亡くなったといいます。棺に石炭を詰めて海に沈め、汽笛を鳴らしながら船が2~3回旋回して弔いました。そんな極限の中でも「イルカやトビウオを初めて見たことが嬉しかった」と語ります。
引き揚げ船は京都府舞鶴港に到着しました。そこから列車に乗り、九州の故郷を目指します。途中、原爆投下から約1年の広島も通過しました。
「コンクリートの建物以外は真っ黒で、焼け野原でした」
玖珠に着いたのは7月末。豊後森駅で知人にもらったトマトの味は、今も忘れられないそうです。

◆帰国後の暮らしと苦難
着の身着のままの帰国。父親に仕事が見つかるまでの4~5年は極貧生活でした。
「兄妹全員が栄養失調で、膝から下におできができていました。ヨメナなどの野草を入れた雑炊を食べたり、魚を釣ったりして生き延びました」
近所の子どもからは「引き揚げ者」と呼ばれ、いじめられることもありました。
「向こう気が強かったので『なにを!』と歯向かってましたけど、やっぱりつらかったですね」
大人からあからさまな差別はなかったものの、どこか冷ややかだったように感じると語ります。
その後、宿理さんは職を転々とした後、農協に勤めました。戦争について自分から語ることはなかったそうです。今回の取材も、一度は断ったものの、周囲のすすめで応じてくれました。
「満州には、いい思い出もあります。美しい街並み、冬にはスケートも楽しんだ。でも、戦争がすべてを壊してしまった。楽しかった記憶も、悲しいものに変わってしまったんです。やっぱり、思い出したくないんです。本当は、誰だって戦争なんかしたくないはずなのに、いまの世界を見ていると、あの頃と同じ道をまた歩いているように見えるんです。
歴史って、戦争・平和・戦争・平和…の繰り返し。でも、戦争は、絶対にしてはなりません。結局、苦しむのは、底辺の人々、庶民なんです。私の友人は、生まれて3か月で母親を失い、すぐに父親が招集され戦死しました。残された、おじいさんとおばあさんが近所に『もらい乳』をして回ったそうです―戦争とはそういうものです」

戦争を知る人の声が、少しずつ遠ざかろうとしています。
けれども、その声は、消えてなくなるものではなく、次の誰かに受け継がれていくべきものです。
あの日、寒さと飢えの中で、それでも生き抜いた人がいたということ。戦争は、戦場だけでなく、名もなき人々の暮らしと命をも容赦なく奪っていくことだということ。
「もう二度と繰り返さないでほしい」―その願いが、今を生きる私たちの静かな灯となり受け継がれるように。

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戦争体験を語っていただける方を募集しています。語って良いという方、身近にそういう方がいらっしゃる場合は、九重町役場 未来デザイン推進課(【電話】76-3874)までご連絡ください。