くらし 市長独言 No. 96…災害に強いまちづくり

東日本大震災から丸14年経った3月11日、市震災対策訓練が実施され、多数の市民の皆さんが参加しました。私も消防活動服を着て視察した住吉校区の高台(標高約10メートル)には約40人が避難して集まっていました。
「家にタオル(避難済みの印)を掲げてきた?」
消防団長の問いかけに、うなずく人はいませんでした。
夕闇迫る坂道で足下を電気カンテラで照らしながら、津波を想像し、14年前の長い1日を思い出しました。
2011年3月11日午後2時46分。私は当時の勤務先である新聞社の出張で東京都世田谷区にいました。小田急線の駅を降り、高架線路沿いの道を前方から犬を連れて散歩中の男性が立ちすくんでいる、と思った瞬間、グラグラッと地底からの揺れに襲われました。震度5弱、震源は何と三百キロ以上離れた宮城県沖。
午後4時前、法務局での用務を終えて都心まで引き返すのに電車は不通、タクシーがつかまらないので国道246号(青山通り)を東へ歩きました。途中、動いていたバスに乗ったものの、歩くより遅いので下車。陽が落ちて空腹と疲れから沿道の飲食店で食事。再び歩き始め、三軒茶屋の交番前に行列しているので尋ねると、泊まる宿を相談する「帰宅難民」でした。私は皇居に近いホテルまで10キロ足らず。2、3時間でたどり着くはずです。約3キロ先の渋谷駅には地下通路で夜明かしを覚悟した人々がいました。その後、地下鉄が開通し、国会議事堂前あたりで下車してホテルに着いたのは午前1時近くでした。
翌日、福岡に帰る羽田空港で離陸を待つ午後、津波に襲われていた東京電力福島第一原子力発電所で水素爆発が起き、原子炉「メルトダウン」の事態。急きょ帰福を中止して東京本社へ応援に駆けつけ、数日延泊しました。
今年の訓練で、馬毛島には数千年前の「津波石」が残るという記憶もよみがえり、災害に強いまちづくりへの思いを新たにしました。