くらし 戦争を知らない時代に問う、平和の意味(4)

■戦争を風化させないために
[Interview1]
死にたくない、という願いは許されないものだった
下原邦義さん(105)
牧園町在住

20歳の時、私は出征しました。出発前に霧島神宮へ参拝し、地域の人たちから万歳三唱で送り出されたのを今でも覚えています。不思議と怖いという感情はありませんでした。教育の中で『敵国は必ず倒すべき存在』として教え込まれ、恐れや不安といった感情は自然と排除されていたのだと思います。今思えば、戦争に向かう自分の姿を、正しいものと信じてもいました。
配属されたのは九六部隊という陸軍の部隊。中国の衡陽(こうよう)という地で総攻撃に参加することになり、そこで私は初めて死ぬかもしれないと思いました。激しい銃撃戦の中、「殺すか殺されるか」という極限状態で、初めて怖いという感情が込み上げてきました。心の奥底で、自分は死にたくないと気づいた瞬間でもありました。死ぬことが美化されていた時代に、この感情は罰当たりだったのかもしれません。
戦場で次々と命を落とす仲間たち。しかし、悼む時間はありませんでした。彼らの形見を持ち帰られなかったことが、今でも悔やまれます。残された家族にせめて何か一つでも届けてあげたかった、その思いが胸に残り続けています。
終戦を迎えたのは、中国に駐留していた時でした。その朝は、不気味なほど静かだったのを覚えています。毎日あれだけうるさく飛んでいた戦闘機の音が聞こえず、空気が変わったのを本能で感じました。憲兵団から「日本が敗戦した」という正式な知らせを受けた時、私たちは悲しむより先に大急ぎでトラックや倉庫にあった弾薬を川に投げ捨てました。敵に利用されることが怖かったのです。その行動は上層部の命令ではなく、身を守るために初めて自分たちで判断したことでした。
敗戦の知らせを受けた後、じわじわと悲しみが押し寄せてきました。これまで命を懸けて戦ってきた全てが終わったのだというむなしさと、これからの生活がどうなるのかという不安。毎日が手探りで、心の整理がつきませんでした。
日本が急速な復興を遂げた頃、私は戦場だった中国を再び訪れました。現地の人々の対応が今でも心に残っています。命を懸けて戦った土地の人たちが、笑顔で迎えてくれたのです。そのことに感謝しながら戦死した仲間たちの石碑に手を合わせ、せめてもの供養として現地の人たちに見えない所で焼酎をかけました。
戦争は最悪の行為です。ただ、軍人同士の命を奪い合うだけのものではありません。戦場では子どもやお年寄り、女性、戦闘の意思のない無数の市民が巻き込まれ、命を落としました。その現実こそが、戦争の本当の恐ろしさです。命がどれほど大切なものであるかを知っていれば、戦争など起きないはず。セミの声、風の匂いといった何げない日常風景が、戦場の記憶を呼び起こします。忘れようとしても忘れられない、それほどの体験でした。