- 発行日 :
- 自治体名 : 鹿児島県中種子町
- 広報紙名 : 広報なかたね 令和7年(2025)9月号
■戦後80年(1)
令和7年は、戦後80年の節目の年となります。昭和16年。日本軍によるアメリカの真珠湾攻撃を機に、第二次世界大戦の太平洋戦争に突入しました。日本軍は国家総動員法によって、若者を戦場へと駆り立てました。
種子島からも多くの青年が兵士として戦地へ向け出兵しました。
当初、優勢と伝えられていた戦況も、時間の経過とともに状況が悪化し、各方面の部隊が撤退を余儀なくされました。
次第に、沖縄方面での激戦が伝えられると、日本本国がB29などの爆撃機の空爆にあい、焦土と化しました。
そうした中、国は沖縄に次いで、薩南諸島でも米軍が上陸し、戦場と化することを予測し、爆撃機が日本上空を飛行する中、これからの日本の将来を担う少年少女を守るため、集団での疎開を決定しました。戦況が悪化した昭和20年の初めです。
国は、熊毛地区の疎開先の割り当てを行い、中種子町は薩摩郡内の国民学校に疎開することになりました。
中種子町は、町内の国民学校(小学校)ごとに疎開先を決め、昭和20年4月から順次疎開が始まりました。
星原小学校は鶴田小学校へ児童165名、納官小学校は神子小学校と紫尾小学校へ計104名、増田小学校は永野小学校へ348名、野間小学校は盈(えい)進(しん)小学校ほか3校に計748名、油久小学校は、求名(ぐみょう)小学校に151名、南界小学校は佐志小学校に331名、岩岡小学校は柏原小学校に106名が疎開しました。これに学校の先生方や保護婦の方々が付き添い、総勢1953名の町民が戦火を免れるため、海を渡って薩摩郡薩摩町に向かいました。
まだ10歳前後の小学生が親元から引き離され、不安を抱える中での集団疎開は、悲しく辛い環境だったことでしょう。
町文化財保護審議委員 濵脇時則