- 発行日 :
- 自治体名 : 北海道芽室町
- 広報紙名 : すまいる 令和7年9月号
■その122
「上伏古神社」(十線十八号)
「稲荷神社」(九線十七号)
「徳願寺」
めむろ歴史探訪会 瘧師信孝
「上伏古神社」
大正八年九月上伏古校下が二分割され、上伏古部落が生まれた。これを機として、大正十二年に辻与一、福田清六、小森金平、堀江鶴吉、児玉繁七等が発起人となり石原貞治郎氏が寄付した土地に神社造営を進める。御神体は農業の神様である豊受大神である。祭典は、春四月三日・四日、秋九月四日・五日に行われた。その後三十六年を経て腐朽甚しきに依り三年計画による神社御造営がなされ、昭和三十五年九月四日朝から鳥居開式を行い十時から遷宮式を始められ、朝からの雨も行事が一済終わる時晴天となりました。現在は上伏古農事組合に登記を譲渡されている。
「稲荷神社」
大正十三年六月頃地帯に在住していた住民が精神を患い病状が悪化し、手に負えないように成ったため、部落で相談の結果財産を整理して、岩手県の親元に送り届けることになり、代表2名で送り届けた。財産整理の結果少し余剰金が出たので、相談の結果稲荷神社でも建てることとなる。辻与一氏が現在地に柏の枝葉の発達した木があり、山の神さんが住んで居ると言うことで、現在の地に京都伏見正一位稲荷大明神を祭り現在に至っている。祭典は一月一日、七月十七日に行われる。
「徳願寺」
大正九年十一月に寺院設立の話が決定し、九線十九番地に設立することになる。大正十年一月二十二日、上伏古寺院が出来上がり真宗大谷派上伏古説教場として許可され、山田浄信師が着任。以来、昭和四年まで布教に活躍される。
昭和四年、伊藤義秀氏が説教所の住職として着任した。昭和三十四年七月念願の寺院に認定されて徳願寺と命名。その後、昭和四十七年十二月入院先の江南病院にて生涯を閉じる。それ以来徳願寺には住職はなく川西の勝久寺に合寺。その後廃寺となる現在跡地は地帯の駐車場として活用されている。
引用・参考文献「上伏古史」