くらし 【特集】ヤーン・アライブ(1)

【参加者】
テディ・サーカさん(高山)
相川正代(あいかわまさよ)さん(花)
和泉勇子(いずみゆうこ)さん(松)
遠藤安子(えんどうやすこ)さん(花)
町長 寺澤薫

3・11を乗り越えて、今や世界中に編み物を届け、支援を続けている七ヶ浜のお母さんたちがいます。そのグループとは、毛糸で生き生きという意味の「ヤーン・アライブ」の皆さんです。
自らも被災し、編みものをすることで心を癒し、互いの心を糸でつなぎ、紡いできたお母さんたち。その活動は、笑顔が絶えず、なごやかで、しなやかで自然体です。
笑う門には福来る。皆さん、今年もハッピーな一年にしましょう!

■この町の人はすごいなぁ
《サーカ》
実は私、高山(外国人避暑地)にいて3年間、あまり出かけない時期がありました。その前までは世界中を旅していましたが、60歳を機に少し休んだ方がいいかなと思って編み物を始めたのです。
私の母は昔、毛糸のお店を開くほど編み物が大好きで、母が何かを編んでいると聞くと私は母にたくさんの毛糸を送っていました。
東日本大震災が発生し、七ヶ浜のばあちゃんたちの家がみな流された時、私は阪神淡路大震災の時の話を思い出しました。すべてを失い、目的もないのなら死んだほうがましだと思い、たくさんのばあちゃんたちが亡くなったそうです。
私は、七ヶ浜でもそうなってしまうことに我慢ができなかったのです。
震災の年の6月頃、七ヶ浜消防署前の最初にできた応急仮設住宅に針と毛糸を持っていきました。
皆さんとコーヒーを飲みながら、「編み物をしたいですか?」と聞いてみたのです。その時の皆さんの反応は、「さぁ~」と今一つでしたが、「まあ、やってみましょう!」と始まりました。
あの時、互いに自分のことを話し、ある人は「私はタンス貯金をしていたので、津波で大金をなくした」と言いました。私はその時、タンス貯金という言葉を初めて知りました。震災からまだ3カ月しかたっていないのに、みんなが冗談をいっぱい言っているのを見て、この町の人はすごいなぁと思いました。心では泣いていたと思います。こうして、編み物が始まったのです。
最初は、仮設住宅の集会所で週1回だったのが、そのうちに若い奥さんたちからもしてみたいという電話がありました。

《相川》
中央公民館前の仮設住宅の奥さんたちからでしたね。私たちの活動が口コミで広がっていったんですね。

《和泉》
私は、やりませんかというお誘いに、早速、やります!と応えました。
松ヶ浜では海沿いの集会所が流されましたので、謡(うとう)地区の集会所で始まりました。集会所には入りきれないくらいの人が集まって、みんなとても喜んでくれました。

《遠藤》
仮設住宅の集会所で始まり、今は町内外から新しい方々が参加し集う和やかな場所になりました。

《サーカ》4キロくらい歩いて通ってきた人もいましたよ。編み方を書いたパターンをあげたり、お互いに教え合ったりしていました。

《相川》
昔の人は誰でも編み物をしたことがあるので、なんとなくでも思い出しながら編めたんですね。

《遠藤》
最初は、みんなでモチーフ(パーツ)を一つずつ編んで、それをつないでひざ掛けを作りました。

《相川》
いろんな色のひざ掛けをいっぱい作りましたね。

《町長》
私は震災当時、地域福祉課長として避難所の開設や集約、食糧の確保、炊き出し、救援物資の受け入れなどをしていました。
震災直後は、何から手を付けていいかもわからず、とにかく、みんなで目の前のことから片づけていこうと必死でした。
毎日、スパーク七ヶ浜で救援物資を受け入れていましたが、トラックからの荷下ろしなど、職員だけでは人手が足りず、避難している皆さんにも手伝っていただきました。高山の皆さんも支援物資を届けていただきましたね。
今思うと、皆さんも何かしていたほうが、気が楽だったのかもしれませんね。うちの町の人たちは、自分の家がなくなったにもかかわらず、文句一つ言わずにみんなで協力してくれたのはありがたかったですね。それぞれに役割を持つことも大切だと感じました。