- 発行日 :
- 自治体名 : 山形県中山町
- 広報紙名 : 広報なかやま 令和7年6月15日号
幕末の山形地方の画壇に大きな業績を残した画人西塔太原は、若い頃は土佐派の画法を学び、また、越後の画人五十嵐華亭にも学んだといいます。さらに、仙台に遊学し、南画の大家菅井梅関に師事しました。この頃、号を琴岱と称し、瑞鳳寺住職南山禅師とも親交を結んでいます。のちに、南山禅師から「太原」の号を贈られています。
文政10年(1827年)、30歳の頃江戸に出て、谷文晁の長子である谷文二の画塾に入門しました。のち、文二の推挙により、当時の関東南画の巨匠で江戸随一の大家といわれた谷文晁への入門を許されました。修行の成果が実り、天保8年(1837年)江戸一貫堂出版の「百名家書画帖」に、「夜竹」と題する作品が選ばれました。「名衡字彦平、号太原又壽村、桑者、出羽最上西塔長右衛門」と紹介されています。壽村の号は、師である谷文晁から贈られたものです。
天保11年(1840年)3月、画法允可(いんか)の印として「六法伝授之図」を贈られて帰郷しました。師の文晁は同年12月に78歳で亡くなり、巨匠最晩年の門人であった太原も帰郷後わずか8年、業半ばにして嘉永元年(1848年)に52歳で亡くなりました。また、「六法伝授之図」は昭和35年に山形県有形貴重文化財に指定されています。
■語句の説明
五十嵐華亭:江戸時代後期の画家。京都の岸駒(がんく)に学び、四条派を研究。美人・花鳥の絵に優れ、天保ごろ活躍した。
菅井梅関:江戸時代後期の文人画家。仙台四大画家と称される。
谷文晁:江戸時代後期の画家。はじめ狩野派の加藤文麗に、のち渡辺玄対に画を習い、諸派の画風も学んだ。天明8年(1788年)、田安家に出仕し、寛政4年(1792年)、老中松平定信に仕える。画風は、寛政期を中心とした硬質な作品と文化期以降の湿潤な作品に大別される。画家、学者、文人とも親交も広く、江戸画壇の大御所として活躍した人物。
允可:許すこと。許可。
※引用…中山町史中巻第10章第3節文芸と美術工芸