- 発行日 :
- 自治体名 : 茨城県古河市
- 広報紙名 : 広報古河 2025年7月号No.238
■初鍬入れ300年 飯沼新田開発
~美田三千町歩へのスタート~
○飯沼新田開発
これまでにも何度か取り上げてきましたが、市内東部を縦断する長大な水田(南総土地改良区)は、江戸時代中期まで水を満々(まんまん)とたたえた飯沼と呼ばれる沼でした。
この飯沼が、江戸幕府の新田開発奨励策に沿い干拓事業計画として進められ、初鍬(くわ)入れ(工事着工)が行われたのが、今からちょうど300年前の享保10(1725)年1月のことでした。
○開発前夜
飯沼は、栃木県下野市付近と小山市鉢形付近から流れ出た水が合流して南下した川と、周辺の台地から流れ落ちる水が集まってできたもので、かなりの水量があったと考えられています。
平安時代には成立していたとされる『将門記(しょうもんき)』に登場する「広河江(ひろかわのえ)」は、飯沼を指していると推定され、葦(あし)なども生い茂っていたと思われます。
この飯沼を干拓して水田にしようという計画は、江戸時代の早い時期から確認できます。現在知られる最も古い開発計画は、寛文9(1669)年のものですが、具体的な計画の内容は分かっていません。それから30年以上経った宝永3(1706)年には、排水方法などを決めて幕府に開発申請をしますが、これも実現には至りませんでした。新田開発が行われれば耕地は増加しますが、開発に関わる莫大(ばくだい)な経費を村人たちが負担しなければならず、さらに生活の糧となる漁猟や水草採取などもできなくなってしまうため、周辺村々の内部にはさまざまな利害の対立があったからです。
○新田開発申請
こうした状況を経て、新田開発に向けて大きく動き出す契機になったのが、享保7(1722)年7月、幕府によって江戸日本橋に立てられた、諸国新田開発奨励の高札です。これを現地で直接見た岡田郡尾崎村(現八千代町)の名主は、すぐさま飯沼廻(まわ)り村々の代表として新田開発願いを幕府に提出しました。しかしこの時には、沼廻り村々の連印がないという理由で保留となったため、村々の合意を取り付けた上で、改めて8月に幕府に願書を提出します。
○干拓開始~祈願と初鍬入れ
その後、幕府役人らによる現地調査などを経て、幕府が最終的に新田開発を許可したのは、最初に願書を提出してから2年近く経った享保9(1724)年5月のことでした。この決定を受けて、沼廻り村々では開発に向けたさまざまな協議などを実施。その年の12月25日、恩名・仁連・東山田など沼廻り村々の名主などが沓掛(くつかけ)村(現坂東市)の香取神社に集まり、新田開発が無事に成就することを祈願し、参加者全員の血判をもって起請文(きしょうもん)を交わしました。
そして、享保10(1725)年1月10日、開発を主導した井沢弥惣兵衛(やそべえ)(為永)をはじめとする幕府役人と、沼廻り村々の村役全員立ち会いのもとで初鍬入れが行われ、ここに開発に向けた本格的な工事が開始されました。
○企画展開催
三和資料館では、後世「美田三千町歩(ちょうぶ)」と呼ばれるようになる飯沼新田をテーマにした企画展を、7月12日(土)から9月15日(月)まで展示室にて開催します。この機会に、ぜひ、ご覧ください。
三和資料館学芸員 峯照男