- 発行日 :
- 自治体名 : 千葉県山武市
- 広報紙名 : 広報さんむ 令和7年8月号
■佐々木 清さん(山武・88歳)・山武市遺族会会長
調査に同行した資料館友の会会長の高柳さんと
私は山武市森の山支(やまし)地区で生まれ育ち、終戦当時は日向国民学校の3年生でした。私が戦時中に見た記憶を辿りながら絵図にしました。山支地区には20戸程の家があり、兵隊が寝泊まりしていました。自宅には機関銃班が5人、隣家には伝書鳩班が常駐していました。更に隣家の裏土手に掘られた隧道(ずいどう)((2))は師団司令部まで通じていました。そこには兵舎群があり、自動車や大砲など兵器が並んでいましたが、自動車の殆どが木炭自動車であったことを覚えています。また、馬車部隊には20頭ほどの馬と鉄輪の馬車が置かれていました。戦争末期の昭和20年5月頃に山支と本郷地区との境付近に日本軍の飛行機が墜落し、すぐ近くで田植えをしていた人々は大変な恐怖を感じたそうです。
日本軍が山支地区を戦場に選んだ理由は九十九里沖からの米軍の艦砲射撃が届かない場所であったこと、硫黄島玉砕の次は本土決戦だという声をよく聞きました。
(1)戦時中の日向国民学校森分校(現・本郷研修センター)があり、『学びのふるさと』と刻まれた石碑が残されている。
(2)隧道(ずいどう)とは軍事用に用いられた地下道。
(3)大隊長宿の裏には、当時、陸軍第3826部隊の司令部が置かれていた。
(4)守衛所には司令官用の人力車が1台置かれていた。
(5)森地区の賀茂神社境内に建立された民主日本國平和記念之碑。
※詳しくは広報紙P26をご覧下さい。
■綿貫 栄一さん(山武・91歳)
家から車で5分くらいの場所に八街飛行場がありました。爆弾が落とされ飛び散った破片が周囲の松の木に突き刺さって、畑の肥料用に保管している灰が舞い上がり、防空壕に駆け込む毎日でしたね。東京大空襲の時は、東京方面の空が真っ赤で、焼け焦げた紙幣が飛んできました。八街飛行場の偵察機が炎上して鉛が周囲に拡がる光景も目に焼き付いています。敵に見つからないよう偵察機を隠すための誘導路を軍部に畑1反部(10a)を3円から5円で明け渡したこともあります。豊成飛行場のあった東金市方面の上空では、戦闘機が連なる様子がまるで「トンボが飛んでいるように」見えました。睦岡国民学校6年生の時に終戦を迎え、昭和20年8月15日の玉音放送は隣家のラジオで聞きました。戦時中は苦しいことがたくさんありましたが、91歳になり思うことは「相手のことを考えず、自分中心ではいけない。相手に真心が伝わることをしていかないと世の中は良くならない」ということです。戦争には勝者はないと思います。
■加瀬 龍夫さん(蓮沼・90歳)
蓮沼国民学校に入学した年に戦争が始まりました。夏休みには軍馬のエサになる乾燥した草をどれだけたくさん集められたかで優良可の評価がつきました。自宅のある殿下には兵隊さんが駐在し、艦載機が毎日飛び、真っ黒なグラマン(米海軍が使用した艦上戦闘機)3機がすぐ近くを飛んでいったこともあり、落ちたところも何度も目撃しました。学校から集団で五所神社の裏でドングリ拾いをしていた時、空襲警報が鳴り栗山飛行場が襲われました。私は大きな木に登り、その様子をまるで映画を見ているかのように眺めていました。父は葺き屋根の職人で、1日の手間賃が200円ほど。その当時、米1升も同じく200円ほどでした。兄は、2斗の米を自転車に積んで横芝駅まで運び、そこから錦糸町まで「やみや(闇市)」に売りに行っていました。父が兵隊に取られてからは、母が海で採れたアジを干物にし、仲買人に売って生計を立てていました。この地域にも旦那さんが戦死し、幼子2人を抱えた20代の未亡人も。本当に大変な時代でした。
■大池 俊介さん(蓮沼・90歳)
母の故郷が蓮沼であり小さな持ち家もあったので、小学4年生の時に縁故疎開で蓮沼国民学校に転校してきました。当時は戦況が悪化する中で、軍国主義教育が強化され、特に上学年男子は「将来立派な軍人となる小国民を育てる事」を目標として体罰的訓練が進められていました。食料事情も厳しくなり、主食は米に代わり、すいとん等小麦粉を原料としたもの・サツマイモ等の芋類・とうもろこし・南瓜等を「代用食」として空腹を満たしていました。またタンパク源を補うものとして、赤蛙やシマ蛇等を捕まえて食用とすることもありました。この食料事情の悪化は終戦後も続き、栄養失調で倒れ死亡する人もいました。戦争末期、米軍の本州の上陸地点として、九十九里海岸が予想されるようになると、大きな軍団が集結・駐屯し、防御体制が整えられていきました。
学校でも、上学年の「わら人形」を立てて突き抜く竹槍訓練に真剣味が求められ、新しく「たこつぼ堀り」(一人用の塹壕(ざんごう)づくり)が付け加えられました。言うまでもなく、これらの学習・作業は、幸せな事に使用せずに済んだのですが、我が家の疎開とは、国の方針・指示とはいえ、いったい何だったのかと考えさせられます。戦争はもう懲り懲りです
蓮沼国民学校の同窓生の加瀬さんと大池さんは「この辺りの海岸は遠浅で上陸しやすいからもう少し戦争が長引いていたら、危なかったね。もし上陸されていたら、女性や子どもは他の地域へ疎開させられたと思うので、各々の人生も今とは違っていたと思います」と振り返りました。
・軍用車両用の頑丈な橋を架けるため取り壊されてしまった赤羽橋(南浜地区:蓮沼海浜公園近く)
・現在の南浜地区の様子
※詳しくは広報紙P27をご覧下さい。
■並木 優衣さん・久栄さん(成東・22歳78歳)
青い目の人形を通して親子4代でつなぐ100年の平和への願い。「私は会ったことのないひいおばあちゃんのことを、成東小学校の『青い目の人形アリス』で知りました」と語る並木優衣さん(22歳)。(青い目の人形の詳細は広報さんむ4月号P.3を参照)
アリスの紙芝居を通して、平和の大切さを若い世代に伝えたいと願う祖母の久栄さんの草の根活動を手伝い、英語に翻訳しました。
英語が好きで国際親善に興味があるという優衣さんは「ひいおばあちゃんとおばあちゃんの思いを私の英訳で世界中にアリスの話を広め、言葉の壁を越え、異なる文化を持つ人々にも平和へのメッセージを語り継いでいきたいです」と話していました。
[紙芝居の英訳文より抜粋]
私は今、アリスちゃんの秘話を終えて、どんな時代の流れの中でも自分で考え、判断し行動すること、世の中が大変な時こそ、人としての心を大切にしていきたいと願っています。
Now that I have finished Alicechan’ssecret story, I hope to think,judge, and act on my own, nomatter what the times are like, andto cherish the human spirit evenwhen the world is going throughdifficult times.