くらし [特集]自分らしく生き抜いた近代平塚の女性たち(2)

◆女性と子どものために尽くした地域活動家
「比企キヨ」
明治10(1877)年に現在の二宮町中里で生まれる。旧姓・水島。父は民権家で、23(1890)年に県議会が廃はい娼しよう案を可決した時の議長だった、水島保太郎(やすたろう)。25歳のときに開業医の比企喜代助と結婚。これを機に平塚市へ。昭和37(1962)年没、84歳。

◇不屈の闘志と行動力
比企キヨは、富国強兵が進む時代で蔑(ないがし)ろにされてきた女性や子どもが、尊重される世を目指して奔走し続けた人物だ。地域の風紀粛正や廃娼運動の他、平塚初の幼稚園創設とその経営に生涯を尽くした。キヨの展示を担当した星賀さんは、「民権家のお父さんの元で養われた自主自立の精神と、並外れた行動力を持った方です」と話す。

・良き理解者と共に
キヨは明治36(1903)年、平塚で内科医をしていた比企喜代助と結婚。42(1909)年、医院の近くに日本美普(みふ)教会の平塚講義所ができたのをきっかけに、キヨは教会に通い、44(1911)年にキリスト教の洗礼を受けた(受洗)。大正5(1916)年、講義所が平塚美普教会になると、役員として教会堂の建設などに尽くした。喜代助は受洗しなかったが、キヨの良き理解者として、教会での活動を全面的に支えていた。2人で協力して禁酒を訴え、キヨは廃娼運動にも取り組んだ。

・平塚初の幼稚園を開設
大正12(1923)年の関東大震災で、キヨは脊柱を痛めるほどの重傷を背中に負った。しかし、自身の療養よりも優先したのが幼児教育だった。復興の陰で見過ごされた幼児を憂い、半壊していた教会堂で重要性を訴え続けた。
震災の翌年には、平塚初の幼稚園となる平塚二葉幼稚園(教会付属)を開いた。キヨはそこから35年間、園長として経営の安定に腐心することになる。
また、幼稚園が開設された翌年、園医を引き受けていた喜代助がついに受洗。現在の見附町への園舎建設や教会堂の新築などを、喜代助がけん引していった。

・戦時下の統制と戦後
戦時の統制では幼稚園でも、軍国主義・国家主義が強要されるようになった。キヨは「敵性国家の宗教」を信仰する者と見なされ監視の目も強まっていったという。その中でも、容認できないやり方での戦争協力はしない決意を貫いた。一番の理解者で支援者の喜代助を病で亡くした後も、キヨは自分らしく生き続けた。「成すべきことはすべて終わり」と言い置き、昭和37(1962)年、最後まで力を注いだ平塚教会の幼稚園にて見送られた。キヨが築き上げた幼児教育の場は、令和6年に創立100周年を迎えている。

◆日本人初のオペラ上演で主演した教育者
「戸倉ヤマ」
明治15(1882)年に現在の寺田縄で生まれる。旧姓・吉川(きっかわ)。東京音楽学校(現・東京藝術(げいじゅつ)大学音楽学部)卒業。卒業後は同校助教授など教育者の道へ。41(1908)年に平塚市岡崎の会社員、戸倉保三と結婚。昭和41(1966)年没、83歳。

◇歩んだ音楽教育の道
明治36(1903)年7月23日、東京音楽学校奏楽堂で、日本人による初めてのオペラ「オルフォイス」(グルック作曲)が上演された。歌唱・演技・照明・舞台のほぼ全てを有志の学生で創り上げたオペラ。観客が関係者や招待された人に限られたものの、公演は大盛況に終わる。新聞などには称賛の声が残っている。しかし当時は、男女が舞台上で恋物語を演じることが、問題視された時代。大学の年報には一切記載はない。
そして、後に世界で活躍する柴田(三浦)環もいたこの舞台で主演を務めたのが、当時21歳の吉川(戸倉)ヤマだった。特別展でヤマを担当した鈴木美都子さんは「3幕3時間を歌い上げ、絶賛された歌はどれほど素晴らしかったのか。聴いてみたかったです」としみじみと話す。

・演者から教育者へ
卒業後は、世界へ進出し舞台に立ち続けた三浦環とは対照的に、ヤマは教育者の道を選ぶ。音楽教師としての34年間、再び表舞台に上がることはなかった。ヤマは、若い頃から日本の音楽が世界の水準に届くことを、情熱的に願っていたそう。鈴木さんは、「実力のある方ですが、華やかな舞台に出るよりも、日本の未来を担う人が育つことを夢見たのかもしれませんね」とヤマの選択を語る。

・教え子との再会で注目
ヤマは、母校や学習院で助教授を務めた他、大正7(1918)年に開校した、女子学習院で教授を務めた。そこで後の香淳(良子)皇后に、音楽指導をしたのであった。ヤマは昭和30(1955)年に昭和天皇と香淳皇后が、大磯を訪れた際に再会。この再会を詠んだ皇后の歌(4面)が新聞に載ったことで、ヤマの業績が注目された。家族が日本初のオペラ上演の話を知ったのもこのときだったそう。ヤマは「私のようなものを恩師といっていつまでもお忘れなく、本当にうれしく思っています」と語っている。喜びの気持ちから、実家のマキの若木を母校の金田小学校に寄贈した。現在、金田公民館に移植された木は、ヤマのように穏やかに故郷を見守っている。