くらし 平和への思いを未来につなぐ(1)

かけがえのない日々をこれからも紡いでいくために、過去の戦災を知り、平和を考えませんか。

◆平塚空襲を語り継ぐ
・平塚の空襲と戦災を記録する会
会長 江藤 巖(いわお)さん
昭和8年2月生まれ。平塚空襲当時は、現在の夕陽ケ丘地区に父・妊娠8か月の母・姉(16)・兄(14)・妹(9)・弟(7)と暮らしていました。

平塚空襲があったとき、私は12歳。夜遅くだったので、寝ていたところを父に起こされました。これまでは空襲警報が鳴っても、敵機は通り過ぎるだけでした。その日も「また上を通るだけだろう」と思っていたのですが、父が「いつもとは違う」とすごい剣幕だったのを覚えています。外に出ると、家から見て南東方面に照明弾が見えました。その瞬間、夕立や集中豪雨よりも激しい「ザーッ」という音。今まで聞いたことのない、とても怖い音です。「焼夷弾(しょういだん)が落ちてくる。しかも真上だぞ」と父が私たち家族に言った直後のことでした。
当時は家の敷地に防空壕(ごう)があり、軒下から防空壕までは2メートルほど。防空壕に入ろうとした瞬間、真っ青な閃光が目に飛び込んできたと同時に全身が熱くなりました。M47焼夷弾が壕内に落ちて私と弟が火だるまになり、父が抱えて防火用水に投げ入れてくれました。防空壕の中にいた姉には火が付いていませんでしたが、父が助け出して立たせたと思ったら、姉はすぐに倒れてしまいました。右足首が切れていて、皮一枚でつながった状態だったんです。母が姉の腿(もも)に三角巾を強く巻いて止血を試みましたが止まる気配はありませんでした。妹は即死の状態でした。焼夷弾の破片が妹の胸を貫通していたと知ったのは後日のことです。
もうここは諦めて、私たち家族は海岸に避難しようと歩きました(下画像・市博物館蔵)。私は全身にやけどを負っていて、両足首から腿の内側が特にひどく、両足に拳(こぶし)大の水ぶくれが連なっていたんです。猛烈な痛みに耐えながら家族に付いて行く途中、父に背負われた姉が「水が飲みたい」と泣き叫ぶため、海岸は諦めて手前にあった第2小学校(現在の港小学校)の近くの砂丘に避難しました。父は「出血多量で駄目になるから水を飲ませるな」と言っていましたが、姉も自分の容態を分かっていたんです。「私はもう助からないから、最期においしい水が飲みたい」と泣き続ける姉に、父・母・兄・私が水を飲ませてあげました。その後に私は気を失い、記憶は一度そこで途切れています。
目を覚ましたら自宅で弟と一緒に寝ていました。近所の人の助けで私と弟は救護所に運ばれ、軍医に診てもらいました。軍医は私の水ぶくれの治療をした後、弟を診て「駄目だ、次」と言ったんです。弟は、救護所に運ばれている途中で息絶えてしまっていました。
結局この空襲で姉・妹・弟を亡くしました。戦争は本当に悲惨です。二度と繰り返してはいけません。
※画像は本紙をご覧ください。

○平塚空襲
昭和20年7月16日午後11時32分から100分間、アメリカのB29爆撃機133機から焼夷弾が投下されました。焼夷弾はM47とM50、合わせて41万2,961本にものぼります。一晩で落とされた数としては、全国で3番目。死者362人以上、罹(り)災戸数は7,678戸と、大きな被害を被りました。

◇一人一人が平和を築く
これは私の考えですが、戦争の発端は、突き詰めると一人の人間の私利私欲に行き着くと思っています。たった一人でも、絶大な権力を持ってしまうと恐ろしいことにつながりかねません。そういった人が育たないようにしなくてはいけない。
これからを長く生きる子どもたちには、大人になっても戦争はだめだと言える人になってほしい。また、違うと思った意見に対して、違うと言える人にもなってほしいと思います。人任せではなく、私たち一人一人が平和を築き上げていくのです。

◇これからも伝え続ける
平塚の空襲と戦災を記録する会が結成されたのは平成元年。私は平成7年に入会しました。当時62歳だった私は、仕事を辞めて何をしようか考えていたところでした。市博物館で開かれていた平塚空襲50年の特別展に足を運ぶと、展示されていた学校日誌の空襲死亡欄に妹と弟の名前があったんです。見つけた瞬間、ハッとしました。同時に「これからの子どもたちに戦争を起こしてはいけないと伝える活動をしなければ」と心に決め、その場で入会したんです。
会では、空襲の証言などをまとめています。月に1回の定例会の他、平塚空襲を経験した方に自分の足で会いに行き、話を聞いて記録に残します。未来に向けて戦災を伝える方法を模索しながら、今後も活動を続けていきます。