- 発行日 :
- 自治体名 : 神奈川県厚木市
- 広報紙名 : 広報あつぎ 第1452号(2025年8月1日発行)
空襲や原爆が多くの命を奪った太平洋戦争。8月で、終戦から80年を迎えます。高齢化により戦争経験者が減っていく中、戦没者の思いを受け継ぎ、戦争の記憶を次の世代へつなぐ二人に話を聴きました。
■太平洋戦争下の主な出来事
▽1941年
12月8日 太平洋戦争開戦
▽1944年
8月 都市部の児童が厚木地方へ疎開
▽1945年
2月16日 厚木・中津飛行場へ攻撃
17日 米軍機が厚木の上空に現れ、本厚木駅を銃撃
3月10日 東京大空襲
5月29日 横浜大空襲
7月16日 平塚大空襲
8月6日 広島市へ原爆投下
8月9日 長崎市へ原爆投下
8月15日 終戦
■戦没者の思いを守り続ける
市遺族会 会長
潮田(うしおだ) 春男さん(76・山際)
「現地でじかに見て、聞いて、戦争の事実を学んできてほしい」。8月に平和学習で広島を訪問する子どもたちを前に、市遺族会会長の潮田春男さんは呼び掛けました。平和学習の実行委員長として、事前研修で実施したワークショップでの一幕です。
遺族会は、太平洋戦争などで家族を亡くした人たちでつくられ、戦没者の思いや戦争の記憶を守り継ぐために活動しています。潮田さんは戦争を経験していませんが、戦死した叔父やシベリア抑留を経験した父の思いを受け継いでいます。
▽命を懸けた叔父と生還した父
山際で生まれ育った叔父の騰(のぼる)さんは、15歳で陸軍に入隊。山梨県の飛行学校を卒業後、航空隊に所属しました。戦いが激化する中で、追い詰められた日本軍は航空機で敵艦に体当たりする特攻作戦を開始。騰さんはその一員として、出撃を命じられました。母親の強い反対を押し切り、土下座をして「行かしてくれ」と頼み込んだという騰さん。出撃の3日前には相模陸軍飛行場や自宅の上空を旋回し、家族に別れを告げたそうです。「機体から別れの知らせで何かを落としたと聞いたが、物も詳しい記録も残っていない」と潮田さんは残念そうに話します。騰さんは、鹿児島県の鹿屋基地から出撃し、台湾沖東方で消息を絶ちました。20歳という若さでした。
翌年、戦争が終結。敵国のソ連の捕虜だった約60万人の日本兵は、シベリアへ抑留されて労働を強いられました。潮田さんの父・正男さんは、その一人です。「家に帰ってきた時は痩せ細り、別人のようだったと聞いている」と潮田さん。「父は戦争の出来事を一切話さなかった。よほど辛い思いをしたのだろう」と、過酷な日々を察します。
▽遺志を守り継いでいく
叔父と一度も会うことがなかった潮田さんは、写真や戸籍の記録から戦争のことを知りました。
叔父や父の遺志を守り継ぐために遺族会に入ったのは2016年。翌年からは会長を務めています。会員は約500人で、飯山にある戦没者慰霊堂で清掃や追悼をする「月例祭」などを実施。毎年開催している市の戦没者追悼式にも参列しています。「若い世代にも戦争の事実と会の活動を知ってほしい」。高齢化などで戦争経験者が減少し、記憶の継承が課題となる中、遺族会では記念誌の作成などを進めています。
「戦争は怖く、子どもたちへの伝え方は難しいけれど、今までに起きたことを知り、忘れないでほしい」。多くの人が犠牲となった戦争の記憶を風化させないために、潮田さんたちは亡くなった人たちの思いを紡ぎ続けています。
■原爆の事実と犠牲を忘れないように
市被爆者の会 会長
東(ひがし) 勝廣さん(82・まつかげ台)
1941年12月、太平洋戦争は開戦しました。45年8月、米国は広島市と長崎市に原子爆弾を投下。焼かれた街では約37万人が死傷し、爆発の衝撃は大きな爪痕を残しました。
長崎で生まれ、3歳で被爆を経験した東勝廣さんは、高校を卒業するまで故郷で暮らしました。自身の記憶や家族から聞いた話を基に、当時を振り返ります。
▽戦争の被害と家族の証言
祖母と両親、4人のきょうだいと暮らしていた東さん。原爆が投下された時は、長崎市内から離れた場所へ母と疎開していました。直接の被害は免れた一方で、兵器工場で働いていた父は職場の寮、兄は長崎駅の宿泊所、祖母と姉は爆心地から2キロ離れた自宅にいました。爆発の熱風や光で、父と姉は腕を負傷し、祖母は割れたガラス片が体に突き刺さるけがを負いました。自身は2日後、家族の安否を確かめるために、母と共に自宅へ戻った時に放射能を浴びて被爆しました。焦土と化した街で、負傷者を汽車で運んでいた兄は「爆発のやけどで皮膚が垂れ下がり、触れるとずるっとむけてしまった。一人一人を担いで降ろすのが大変だった」と、壮絶な体験を後に教えてくれたといいます。
▽自身の目で見た戦争の光景
8月15日に戦争が終結。両親はその後、当時の話をしませんでした。小学校に行っても友達と戦争の話をすることはなかった東さん。中学校に進学すると、やけどの影響で皮膚が腫れるケロイドの跡が残る人や頭髪が抜けている人などを見掛けるようになりました。「その時はなんとも思わなかったが、後に原爆による被害だったと分かった」と振り返ります。鉄骨などが崩れ落ち、復旧が滞る製鋼所を校舎から目にした時、「こんなにもひどかったのか」と、戦争の爪痕と恐ろしさを実感しました。
▽悲しみを忘れないために
東さんは大学卒業後、重工業の会社へ就職し、勤務地の厚木へ移り住みました。そんな時に市内で被爆者と出会ったことがきっかけで、82年に「被爆者の会」を立ち上げました。被爆による健康被害や風評被害があった中で、被爆者同士が相談できる場を提供。当時は50~60人の会員がいましたが、高齢化などで現在は限られた人数での活動が続いています。当事者が少なくなる中、話を聞いた人が正しく情報を伝え、若い世代にも原爆が落とされた歴史を知ってもらえるよう活動を続けます。「自分が住む街に原爆が落ちたらどうなるのか、自分事として考えることも必要」と訴えます。
「戦争は絶対にいけない。悲しみを繰り返さないよう、当時の出来事を語り継いでいきたい」。80年前に起きた原爆の悲劇を後世に残すため、東さんたちは記憶のたすきをつないでいます。
問合せ:地域包括ケア推進課
【電話】225-2200