文化 ふるさと昔 よもやま話 (159)

■『協働のむら 若狭菅浜集落の歴史大火から復興百年』に寄せて
この度、若狭路文化研究所から『協働のむら 若狭菅浜集落の歴史 大火から復興百年』が刊行されました。本書は、世界地図から見た菅浜の自然景観、古代からの製塩、中世の戦闘、寺社の歴史、精霊舟流し等の年中行事、伝統的な食事等、暮らしの移り変わりが分かるように編集されています。また、若狭で唯一梅若流の能が行われていたこと等、従来にない事実も明らかにしています。大正14年(1925)の大火に起因する「日本で一番小さな生協」の歴史は、沖縄の共同(売)店との共通性もあり、集落を次の世代へ受け継いで行く上で重要な示唆を与えてくれる歴史書として生かされることが期待されます。
大正14年5月31日午後1時頃、菅浜で火災が発生し、6月1日付の「東京朝日新聞」が「出漁中に発火し一漁村全焼す 小児の焼死12名 福井県菅浜の大火」という見出しで報じています。何よりも次世代を担う子どもたちを多く失ってしまったことは痛恨の極みであったことは容易に想像できます。
菅浜の復興は、辛島三方郡長の指導の下、復興と生活改善を組み合わせた独特な復興計画となりました。その中核は、集落に新たに産業組合を組織し、耐火建築の産業組合会館を建設したことでした。産業組合会館には、組合の事務所の他に2階に大広間を作り、復興住宅に行事を行う座敷を作らなくても、産業組合会館の大広間を利用することによって、その規模を小さくでき、復興にかかる資金を軽減する、という考えでした。実際に座敷のない家が建てられたかは検証できませんでしたが、会館の地下には共同風呂、隣接して共同販売所が設けられました。この共同販売所が、昭和47年(1972)に、全戸出資の菅浜生活協同組合となりました。平成6年(1994)、生協の店舗が現在の海岸埋立地へ移転し、平成25年(2013)に店舗を改装して今日に至っています。
本書は、大火から復興の延長線上で生協を作り、それを支えるために炭焼きからピザandカフェを建設した合同会社菅浜わくわく協働体の活動を軸に、近代以前の村落共同体の性格を残しつつも、協同組合そして協働体へと変貌してきた菅浜の人々の営みが描かれています。こうした菅浜集落の歴史は、少子高齢化が進み失われようとしている全国の集落にとって示唆に富むものであるといえます。その思いは、執筆と編集の中心となった私だけではなく、編集委員会に関わったすべての方たちの共通の思いなのです。
(町歴史文化館運営委員会 委員長 多仁照廣)