文化 ふるさと昔 よもやま話(160)

■国吉城と同時代の山城・後瀬山城~第2回国吉城歴史講座より~
当館では6月22日、第2回国吉城歴史講座を開催しました。小浜市経済産業部文化観光課の西島伸彦課長補佐(学芸員)を講師にお迎えし、国吉城と同時代の山城であり、若狭武田氏が築いた後瀬山城(のちせやまじょう)についてご講演いただきました。
後瀬山城は大永2年(1522)、五代元光(もとみつ)により築かれ、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦功により若狭国を領した京極高次(たかつぐ)が小浜城を築くまでの約80年間、若狭国主の居城として機能しました。城跡は国史跡に指定されています。
その位置は、小浜市街地の南西部にあり、標高168・53mとさほど高くありませんが、城が築かれた「後瀬山」は、『万葉集』に謳われる名山です。丹後街道や小浜湊を見通せる立地から城が築かれたと考えられています。
範囲は東西550m、南北600mに及び、山頂に主郭を配し、北側に延びる尾根上には平坦な曲輪(くるわ)群が階段状に連なり(連郭式(れんかくしき))、尾根を分断した堀切や、曲輪の斜面を削った切岸(きりぎし)等の防御施設を備えました。縄張りの東側と西側で構造が異なり、特に西側の防御が厚く、尾根上には小曲輪が連続し、谷間にはそれらを連結する横道が多く確認されています。また、斜面には横の動きを封じるための竪堀(たてぼり)や畝状空堀(うねじょうからぼり)群が設けられ、武田氏と縁戚関係にあった越前朝倉氏が整備したとの見解があります。
主郭では、石垣が確認されています。隅の石材は、長辺と短辺が交互になる算木積(さんぎづ)みに類する手法で積まれ、鏡石と呼ばれる巨石も確認されています。鏡石は城主の権力を示すために備えられたことから、武田氏より後の織田・豊臣政権下で築かれたと考えられています。
主郭西南の2郭では、玄関を伴う礎石建物(そせきたてもの)のほか、土を盛り上げた土塁や築山(つきやま)等の遺構が発掘調査で確認されました。土塁は曲輪の東・南西辺部を巡り、東南隅部が幅広に造られ、これを庭園の築山に見立てていたと考察されています。
山の北麓には、かつて日蓮宗長源寺がありましたが、築城の際に同寺を移転して、守護館としました。発掘調査では、館の西側と北側を区画する堀跡や石垣、礎石建物、掘立柱建物、土蔵状建物の遺構等が確認されています。今後、城跡の活用に向けた整備等が進められる予定です。
講座終盤の質疑応答では、2郭の庭園様式について、県内の史跡・名勝地と関連付けた議論が白熱していました。9月21日には、当館館長による第4回講座『どう出る!?豊臣兄弟!』を開催します。皆さんのご参加をお待ちしております。
(若狭国吉城歴史資料館)