くらし 【特集】戦争と平和(1)
- 1/17
- 次の記事
- 発行日 :
- 自治体名 : 静岡県沼津市
- 広報紙名 : 広報ぬまづ 2025年8月1日号
戦後80年 沼津の戦争の記憶
1945年8月15日は、日本だけでなく世界中が忘れてはいけない終戦の日です。焼け落ちたまちや失われた家族、そして戦後の混乱の中で懸命に生きた当時の人々。
私たちが暮らす沼津のまちでも、今から80年前、空襲の被害を受け、多くの命と日常が失われました。
今、私たちがこうして毎日を送ることができるのも、平和で豊かなまちへと歩みを進めてきた、数え切れない人々の努力と祈りの積み重ねがあったからです。戦争を知らない世代が増え、戦争体験者の声を直接聞くことは難しくなりました。今を生きる私たちは、実際に戦争を体験した人から直接話を聞ける最後の世代です。この先も続く未来のため、私たちは何を伝え、どのように記憶を残していくべきなのでしょうか。
沼津市は、世界の恒久平和を願い「核兵器廃絶平和都市」を宣言し、戦没者を追悼する式典やパネル展示、小中学生による作文集の発行などの取組を行っています。平和な生活を後世まで守り抜けるように、そんな思いが地域に根付いていますが、世界の各地では未だ紛争やテロが続き、不安な日々を過ごしている人がたくさんいます。そんな世の中にあって、まち全体で取り組む平和の姿勢は、私たちが未来へつないでいく大切なバトンの一つです。
今回の特集では、かつて暮らしのそばに戦争があったことを、現在に残された記録・記憶から振り返り、平和について考えます。すぐそばにある何気ない風景の中にも、戦争の痕跡や平和への思いがしっかりと残っていることに、皆さんも気付くのではないでしょうか。
■沼津と戦争
1937 戦争の時代
海軍技術研究所など大規模な海軍の施設が進出し、「軍都」と言ってよいほどの様相を呈していました。沼津からも多くの兵士が出征し、一般市民の空襲への備えも強化されていきました。子供たちにも国家主義的・軍国主義的な教育がなされるようになり戦時体制に巻き込まれていきました。
1945 沼津大空襲と終戦
アメリカ軍機は富士山を目標として日本本土へ飛行してきました。沼津はその通り道となっていたこと、軍施設や多くの工場があったことなどから空襲の目標となりました。7月17日の沼津大空襲では、現在の大手町付近を中心に米軍機約120機が来襲。9,000発を超える焼夷弾(しょういだん)が投下されました。
1965 慰霊平和塔建設
香貫山中腹の香陵台にある五重塔は日清・日露戦争、第一次・第二次世界大戦の戦没者並びに戦災死者を慰霊するために建てられました。塔の中は普段見ることはできませんが、3,383柱の位いはい牌が安置されています。毎年8月15日には遺族が集まり、平和塔慰霊法要を行っています。
1987 核兵器廃絶平和都市宣言
核兵器の廃絶と恒久平和を求め、平和な都市の実現を目指す核兵器廃絶平和都市宣言。市内30カ所にモニュメントが建てられています。
1990 平和を考える小中学生作文集発刊
市内の小中学生が授業や各メディア、身近な人の体験談などから、平和について感じたことを作文や詩で表現した作品を掲載したものです。毎年多くの作品が寄せられ、これまでに35集が発刊されています。
市ホームページでもご覧いただけます。
『広報ぬまづ』で検索
2025 現在
■市内に残る戦争の痕跡
市内には、防空壕(ごう)や戦没者慰霊碑といった戦争の教訓や悲惨さを伝える貴重な戦争史跡が80カ所以上存在しています。
[砲台公園]
敵機を迎撃するための高角砲が配備されていたことから、砲台公園と呼ばれています。
[御成橋]
御成橋には1945年4月11日の爆撃による傷跡が残っています。爆弾が落とされ、爆風により破壊されたものが衝突した跡です。
[海軍の実験用水槽(海軍技術研究所)]
第三中学校周辺の海軍技術研究所では潜水艦探知機などの開発が行われていました。現在は実験用水槽が畑として使用されています。
[突撃隊基地跡]
静浦や内浦、戸田地区には米軍の本土上陸を迎え撃つための突撃隊基地跡が残っています。
※出典:明治史料館「沼津の戦争史跡ガイドブック」(2015)