文化 森町の歴史~遠州の小京都ばなし~ 教育委員会社会教育課

■第十三話 日本近代建築板金の泰斗・山田信介(その四)
(広報もりまち令和7年5月号「森町の歴史・第12話」からのつづき)
幕末に森町村の山田七郎左衛門家に生まれた山田信介は、明治19年(1886)7月に東京職工学校(現東京科学大学)機械科を一期生として卒業すると、ドイツ人建築家ベックマンの貸費生に選ばれ、同年11月、建築板金を学ぶためにベルリンへ留学しました。
徳川家康の御用鋳物師を務めた山田家の家業である鋳造は、溶かした金属を鋳型に流し込み、梵鐘(ぼんしょう)や鍋、釜等を造る金属加工技術です。一方、建築板金は、薄い金属板を、切断、曲げ、穴あけ、溶接、成形等の加工を施し、建築物の屋根や飾り、雨樋(あまどい)等を作る技術です。
明治時代初期、時の外務大臣井上馨は、西洋建築による首都構築を目指し、臨時建築局を設置して総裁に就任しました。帝国議会議事堂の建設を含む官庁集中計画を立て、ドイツ人のエンデとベックマンに、都市計画及び主要建造物の設計を依頼しました。ベックマンは、日本で西洋建築を行うにあたり、技師職工育成が急務であると井上に進言し、これを受けて政府はドイツに20名の留学生を派遣しました。その中には、明治時代を代表する建築家である、当時の臨時建築局技師、妻木頼黄(つまきよりなか)、渡辺譲、河合浩蔵も含まれていました。
留学生たちは各専門に分かれて工場に配属され、3年半の苦労の末、明治23年(1890)3月に帰国しました。しかしながら、井上が失脚したため官庁集中計画は中止となり、ベックマンへの依頼内容は、議事堂、大審院、司法省の3棟の設計のみに限定されることになりました。つづく。
参考:松本茂「四天王寺頌徳鐘と山田信介」『遠江』第42号(2019)

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