- 発行日 :
- 自治体名 : 愛知県豊橋市
- 広報紙名 : 広報とよはし 令和7年6月号
今から80年前の1945年、アメリカなど連合国との太平洋戦争が激化する中で豊橋市にも大規模な空襲がありました。豊橋が経験したことのない最大の災害として、多くの人々が犠牲となった「豊橋空襲」。今回の特集では、空襲の体験談や資料から当時の被害状況と復興のようすを知り、私たちが記憶として語り継ぐとともに、平和について考えます。
■豊橋の空襲を振り返る
《太平洋戦争と空襲》
昭和16(1941)年12月、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃したことから、約3年9か月にわたる太平洋戦争がはじまりました。昭和19(1944)年6月に起こったサイパン島の戦いなどで日本軍が敗北すると、アメリカ軍は日本を直接攻撃できるよう、マリアナ諸島のサイパン島・テニアン島・グアム島に飛行場を整備しました。
昭和19年11月から本格化したアメリカ軍の本土空襲は、軍事拠点を目標にした空襲から、昭和20(1945)年3月には東京や名古屋など大都市の住宅を焼き尽くす焼夷空襲へと変わり、昭和20年6月からは目標が中小都市へと変更されました。豊橋市は、静岡・福岡市とともに中小都市を目標とした焼夷空襲の2回目の目標となりました。
《豊橋空襲》
昭和20(1945)年6月19日、テニアン島から出撃した144機のB29爆撃機は、19日の深夜から20日未明にかけて豊橋を襲いました。救援機などを除く136機から投下された1万4889発の焼夷弾により豊橋市街地は炎上し、その炎の中を市民は逃げ回っていました。午前3時15分(アメリカ軍の戦術作戦任務報告では午前3時17分)にB29が去りましたが、約2時間半の空襲により市街地の約70%が焼失したとされ、被害を受けた人は市民の約48%にあたる6万8502人にもおよびました。
6月19日〜20日以外にも、昭和20年1月から7月にかけて幾度となく小規模な空襲があり、合計30人以上の死者が出たとされています。
空襲後は、廃材などを組み合わせて焼け跡に建てた仮設の小屋や、防空壕に住む人がいました。また、劣悪な衛生環境が原因で赤痢の感染が広がり、さらに367人が亡くなりました。
◇6月19日~20日の空襲による豊橋の被害
建物の被害:
・全焼全壊…1万5,886棟
・半焼半壊…109棟
人的被害:
・死者…624人
・重傷者…229
・軽傷者…117人
※上記のほか、記録に残っていない被害もあると考えられる
[Interview]
渡邊 弘一さん(当時10歳)
■逃げた先から見た豊橋は火の海でした
当時、私は小学5年生で、花田町稗田(現在の駅前大通一丁目)に住んでいました。6月20日の0時頃に空襲がはじまった時、どの家庭にも1つは防空壕を持っていたので、私は当時8歳の弟と防空壕に避難していました。近くの家が爆撃され、大勢の人の「逃げろ!逃げろ!」と言う声が聞こえたので、弟と2人で防空壕の外に出て、逃げる人の列に巻き込まれるようにして母親の実家がある豊川市の牛久保まで必死に逃げました。
後に分かったことですが、この空襲で私の家も爆撃を受け、当時37歳の母と当時3歳の弟が亡くなりました。母は、幼い弟のおむつを替えるために家に残っていたようです。
▽火の海からの脱出
母親の実家に向かう途中、豊橋駅を横切ると、木造の駅舎が火の海になっているのが見えました。豊川(とよかわ)にかかる豊橋(とよはし)も木造部分があちこち燃えていましたが、強引に渡り切りました。橋を渡った先では、軍刀を腰に差した陸軍将校に「危ないからこちらへ行け!」と言われ、指示された製材工場へ入りました。おかげで、ザーッという音とともに降り注ぐ焼夷弾を避けることができたのです。
その後、ようやくたどり着いた母の実家から見た豊橋は、地平線まですべて火の海だったことを鮮明に覚えています。
▽これからの世代に伝えたい
平和が一番。戦争が起きて犠牲になるのは市民・国民です。なぜ戦争になってしまったのか、そういった歴史をもう一度しっかりと考えて、今の平和な状態を長続きさせてほしいです。
[Interview]
坂部 きよ子さん(当時4歳)
■火の手が上がってない方へ逃げることに必死でした
豊橋空襲があった日、私は4歳で中柴町に住んでいました。父は警防団で不在だったので、母と私を含めた子ども4人で家にいました。昼間から何度も警報が鳴り、いつもと様子が違う感じでした。
夜中に激しい警報が鳴り、最初は防空壕に入りましたが、「このままでは蒸し焼きになる」と母が判断し、外へ出ることになりました。母は防火用水で濡らした夏布団を私たちにかぶせ、火の粉から守ってくれました。
▽燃えるまちから母と逃げる
母の実家がある牧野町を目指して、最初はリヤカーに必要なものを積んで逃げようとしましたが、中柴通りは火の海でとても進めず、諦めました。母は2歳の妹をおんぶし、私と姉たちの手を引いて、身一つで必死に逃げました。
通りかかった広場には、親を待って裸に近い格好で泣き叫んでいる女の子もいましたが、連れていくことはできず、燃え盛る電信柱や家々の間を、ただ夢中で歩きました。途中、兵隊さんがキャラメルをくれて、とても嬉しかったことを覚えています。
戦後、中柴町の家があった場所を見に行きましたが、見事に丸焼けでした。残っていたのは井戸とポンプぐらいで、周りも一帯焼け野原でした。
▽平和な社会が続くことを願う
戦争だけは絶対にしてはいけません。今、私たちが当たり前のように送っている平和な毎日のありがたさを、身をもって感じています。この穏やかな日々が続くことを願っています。
問合せ:福祉政策課
(【電話】51-2355)