くらし 【特集】豊橋空襲から80年 いま、私たちが語り継ぐ記憶(2)

■空襲と市民生活
▽罹災証明書
空襲で被災したことを証明する書類。罹災証明書を見せることで避難先でも配給が受けられた。

▽防空頭巾
空襲時の落下物や飛来物などから頭部を守るために備えていた、綿入りの頭巾。

▽防空用防毒面
化学兵器での攻撃に備えた防毒マスク。町内会などに備えられ、防空演習に使用したものと思われる。

▽防空カバー
夜間に空襲の目標にならないよう、カバーなどを電灯に被せることで光が外に漏れないようにしていた。

▽衣料切符
昭和17(1942)年に衣料品の切符制度が始まり、衣料品を購入する際は、現金のほかに切符が必要だった。

■復興する豊橋
○新しいまちづくり
焼け野原となった市街地の復旧のため、市は昭和20(1945)年8月4日に市街地の道路や民地の清掃を促す「戦時戦災地整備規程」を作って整備に取り掛かったほか、8月15日に戦争が終わって1か月ほど経った9月20日に、豊橋市復興委員会を組織して本格的な復興の準備を進めました。
新しく区画整理が行われ、道路の新たな整備や水道・下水道・ガス管のインフラ整備などが進められたことで、今の豊橋の基盤がつくられました。被災地を元の姿に戻すだけでなく、商業・工業・住宅の地域をはっきりと分けて都市を近代的に整備しています。
また、都市の復興には交通・輸送機関が重要な役目を果たすことから、復興事業は豊橋駅周辺の道路から手が付けられました。

○豊橋民衆駅の誕生
豊橋駅は、空襲で建物のほとんどを焼失し、仮駅舎で営業していました。その後、総工費の70%を市が負担し、残りを当時の運輸局が負担する民衆駅の建築が承認され、昭和25(1950)年3月に日本で初めての民衆駅が豊橋に誕生しました。
民衆駅とは、駅舎内に商業施設を併設したもので、駅の1階には理髪店や果物店、食堂などが出店し、2階には百貨店がつくられました。

○現在の豊橋市へ
道路の整備とともに市街地の復興が進み、魚町・広小路通り・花園町などかつての商店街の復興が進みました。魚町は昔から魚市場があり、戦後の混乱した配給時代には魚を求める市民でにぎわっていました。
続いて広小路通り、花園町、松葉町が復興し、駅前を中心に都市が形成されました。さらに住宅も次々と建設され、市街地はめざましく復興していきました。
昭和33(1958)年に復興を宣言した豊橋市は、その後もさまざまな発展を遂げ、現在の豊橋市へとつながっています。

■私たちが豊橋空襲を語り継ぐ
豊橋市が空襲によって大きな被害を受けたことや、多くの人が復興に尽力したことを知り、私たちがその記憶と平和への想いを引き継いで、次の世代へと伝えていきましょう。
▽戦没者の追悼サイレンを鳴らします
とき:8/15(金)12:00から1分間

問合せ:福祉政策課
(【電話】51-2355)
【HP】112071

▽平和に関する資料を貸し出しています
・図書資料の貸し出し
ところ:中央図書館

問合せ:中央図書館
(【電話】31-3131)

・DVDの貸し出し
ところ:市役所じょうほうひろば、各生涯学習センター、各校区市民館ほか
その他:ホームページからも一部、視聴可

問合せ:行政課
(【電話】51-2027)
【HP】76484

※作成にあたり、『とよはしの歴史』(豊橋市1996年)、『戦前の豊橋豊橋空襲で消えた街並み』((株)人間社2016年)、『令和に語り継ぐ豊橋空襲』((株)人間社2020年)を参考・引用しています。