くらし 特集 戦後80年 未来に向けて、平和を願う(1)

■今年は終戦から80年の節目の年
昭和20(1945)年8月15日の終戦から今年で80年となります。戦争では、日本各地への空襲、広島と長崎への原爆の投下などにより、多くの尊い命が犠牲になりました。本市でも空襲があり、大きな被害を受けました。終戦から80年を迎える今、戦争経験者も高齢化し、当時の様子を知る人も少なくなってきています。
今回の特集では、戦争経験者である辻村修一さんの当時の生活に関するお話や、戦争や平和について考える機会を紹介しています。戦争の記憶を風化させないために、今を生きる私たちにできることを考えてみましょう。

■伊勢市非核平和都市宣言
本市では、平成18年7月11日に非核平和都市宣言を行いました。非核三原則が完全に実施されることを強く求め、市民の平和と幸福を願う宣言です。

◇伊勢市非核平和都市宣言
世界の恒久平和は、人類共通の願いです。私たちは、世界で唯一の核被爆国民として、また、日本国憲法の精神に基づき、核兵器の廃絶と軍備縮小を全世界に訴えるとともに、「持たず・作らず・持ち込ませず」の非核三原則が完全に実施されることを希求し、市民の平和と幸福を願い、ここに「非核平和都市」を宣言します。
平成18年7月11日

■伊勢にも空襲があった 宇治山田空襲
昭和19年7月に、アメリカ軍が日本本土空襲を開始した結果、宇治山田市(現伊勢市)も、空襲にさらされることとなりました。
昭和20年1月14日にB29が宇治山田市に初空襲し、岩渕町錦水橋西北端・常磐町・伊勢神宮外宮宮域内に爆弾を投下しました。その後も空襲が続き、特に大きな被害が発生したのが、宇治山田市の最後の空襲となった7月28日の空襲でした。約1時間にわたり、1万数千発の焼夷(しょうい)弾が投下され、市街地の約60%を焼失し、焼失家屋4859戸、死者75人、負傷者117人の被害がありました。

◇市街地の60%が焼失 宇治山田空襲の様子
※詳細は本紙をご覧下さい。

◇宇治山田大空襲の被害
焼夷戸数:4859戸
負傷者:117人
死者:75人

■戦争経験者インタビュー
戦争を知らない世代に届けたいこと
辻村 修一さん
宇治山田市(現伊勢市)に生まれ、小学生の時に戦争を経験する。
現在は、山田奉行所記念館の館長。

◇学校のグラウンドがサツマイモ畑に
戦時中は、早修国民学校(現早修小学校)に通っていました。学校生活で記憶に残っているのは、学校の敷地内に奉安殿という建物があり、登下校の時に、そこに寄って拝んでいたことです。後は、学校のグラウンドがサツマイモ畑になり、芋を育てていたことも記憶に残っています。

◇焼夷弾に備えて、家の天井を外した
当時、ほとんどの家に防空壕(ごう)があったと思います。土を掘り、その土を盛ったかまくらのような形でした。中は2畳ほどの広さで、対面で座ることができました。空襲がひどくなってくると、不発の焼夷弾が屋根裏に残って爆発するといけないということで、天井を外せという指示がありました。私の家もそれに従って、天井を外しましたが、今思うとおかしな話だったなと感じます。

◇戦災に遭った人とそうでない人の生活の差はとても大きかった
私は空襲で自分の家を失いました。戦災に遭って、一番大変だったのは、着る物がなくなったことです。食生活も惨めなものだったかもしれないですが、食べ物は何とかなりました。着る物は、全て失ってしまったのでどうしようもなかったです。秋になって寒くなってくると、疎開先の玉城町では、はんてんを来て登校する人が多かったですが、自分は、はんこ(袖がない羽織)を着て登校していました。ほかの人がとてもうらやましいし、寂しい思いをしたことを今でも覚えています。戦災に遭った人とそうでない人で生活の差はとても大きかったと思います。
また、とても印象に残っているのが、学校の先生が帰り道に馬糞を拾っていたことです。恐らく、自宅の畑の肥にしていたのだと思いますが、先生の気持ちを考えると、惨めだっただろうなと感じます。そんな思いをしてでも毎日を生きるのに必死になっていたんだと思います。

◇戦争を知らない世代へのメッセージ
一番大切なことは、相手の気持ちを考えることだと思います。世界では、今でも戦争が起こっていますが、相手の気持ちやそこに住む人のことを考えれば、そんなことは起こらないはずです。
誰でも生きていれば、決断をしなくてはいけない瞬間が来ると思います。そんな時には、自分がどんな立場であっても、相手のことも考えてほしいですね。

問合せ:人権政策課
【電話】21-5545【FAX】21-5555