くらし 戦後80年 記憶のバトンをつなぐ―平和への願いを、未来へ―

歳月の経過とともに、人々の心の中から戦争の記憶が薄れつつあります。悲劇を二度と繰り返さないために、私たち一人ひとりがいま一度平和について考え、平和への願いを未来につなげていきましょう。

■二度にわたる姫路空襲
太平洋戦争の末期、姫路は二度の空襲により甚大な被害を受けました。
一度目は昭和20(1945)年6月22日、午前10時前。現在のJR京口駅周辺にあり、戦闘機「紫電改」などを造っていた川西航空機姫路製作所の工場が攻撃目標となりました。B29の爆撃で工場は壊滅的な被害を受け、付近の民家なども被災。人的被害も甚大で、死者341人、重軽傷者等は360人に上りました。
二度目は同年7月3日。深夜から4日にかけて2時間近く、B29が姫路城の南から姫路駅周辺の市街地を焼しょう夷い弾で爆撃。街は火の海と化し、総戸数の約40%が焼失しました。死者は173人、重軽傷者等164人、全焼家屋1万248戸。被災者は4万5182人という大惨事でした。
※被害状況は本市発行「復興の歩み」より

■REPORT 戦後80年特別講演を開催しました
6月22日(姫路空襲の日)に、平和資料館で戦後80年特別講演を開催。空襲研究家・工藤洋三さんが「B29による戦略爆撃と姫路空襲」と題して話しました。
工藤さんは、日本における空襲の経験者の証言とアメリカの資料を突き合わせて、空襲の実態を明らかにしようと研究を開始。平成6年から始まった渡米調査の回数は、30回に上ります。
講演では、米軍が、東京大空襲の成功や名古屋空襲での失敗、空爆に関する実験などを経て、日本への空襲に関する戦略を確立していった経緯が語られました。天気の良い日には複数の目標に対して昼間に精密爆撃を、天気の悪い日には焼夷弾による夜間の都市空襲を行うという戦略が、姫路空襲にも適用されたということです。
当日は、定員を超える74人が参加。工藤さんの話に、熱心に耳を傾けました。

■INTERVIEW 生きて帰って来てほしかった
姫路空襲語り部 黒田権大さん

▽PROFILE
昭和4年に生まれ、昭和20年、旧制中学4年生の時に姫路空襲を体験。平成元年より語り部として活動。戦時中の体験を通して平和の尊さ、大切さを訴え続けている

▽炎が街を焼いた
当時、学生だった私は、学徒勤労動員で、学校へ行かずに飾磨の工場で働いていました。6月22日も工場で仕事をしていると、空襲警報のサイレンが。避難の道中、南の空を見上げると、B29がキラキラと銀色に光りながら近づいて来ます!いよいよ来たのか、という悲壮感を抱えながら防空壕に飛び込みました。
7月3日、駅南の自宅にいたところ、深夜にサイレンが鳴り響きました。慌てて離れの祖父母のところに行き、早く逃げようと呼び掛けましたが、足の悪かった祖母は「どこにいても死ぬときは死ぬ。あんたら、早く逃げなさい!」と返すだけで避難しようとしませんでした。母に避難を促された私は、近所の田んぼの溝に逃げ込みました。すると、田んぼにも焼夷弾が投下され、そのうちの1本が私の目の前に!幸い、田んぼには水が張られていて、泥水に突き刺さった焼夷弾は発火しませんでした。姫路駅の方角を見ると、街が真っ赤に燃えていました。
空襲が落ち着いてから家に戻ると、母屋も離れも燃えていました。天井が燃え落ちて、祖母は全身やけどで亡くなっていました。遺体というよりは、真っ黒な物体。遺体を掘り起こして、近所の墓地まで無我夢中で運びました。人の死体を見たのは初めてで、しかもそれが祖母のものでしたから、ショックが大きかったです。

▽戦地に散った兄
私には五つ歳上の兄がいました。兄はデザインや絵が達者で、水泳や歌を私に教えてくれました。県の弁論大会で、学校代表として二度も優勝するような優秀な人でした。そんな兄を私はとても尊敬していました。兄の出征を「万歳!万歳!」と見送った時、悲しくて涙が止まりませんでした。
戦争が終われば兄は帰って来るのだと、家族みんな期待していました。けれど、帰って来たのは白木の箱に入れられた紙1枚。昭和20年12月に中国の野戦病院で亡くなったという知らせだけが届きました。遺骨はありません。両親も私も玄関で泣き崩れました。
戦死者が出た家は、表札の横に「名誉の戦死者の家」という札を掲げていました。でも、名誉の戦死なんて言われてもちっとも納得がいかなかった。兄はもっと生きたかったと思います。ただただ残念です。けがをしていても、生きて帰って来てほしかった。

▽私の使命、そして願い
私が語り部を始めたきっかけは、定年後に小・中学校で空襲体験を語ったことでした。亡くなった人の代わりに語ることが私の使命だと、昔も今も変わらず感じています。
戦争は人類の最大の罪悪です。戦争をすれば必ず犠牲者が出ます。肉親が戦場で、爆撃で、死にます。これからを生きる人たちには、そんな戦争の悲惨さや平和の尊さを知って、学んで、永久に平和を守ってほしい。平和がなければどんな幸福もあり得ませんから。
平和大国として、二度と犠牲者を出さないでください。二度と戦争をしないでください。それが、私の願いです。

問合せ:広報課
【電話】221-2072