- 発行日 :
- 自治体名 : 山口県下松市
- 広報紙名 : 下松市広報「潮騒」 令和7年8月号
戦争は過去のこと、遠くで起こっていることではありません。太平洋戦争(昭和16~20年)終結から80年。節目の年に、戦争と平和について考えてみませんか。
戦争の記憶を次世代につなげ、平和の大切さを伝えようとする人や戦争遺跡を紹介します。
■「下松市原爆被害者の会」金清陽子さんの証言
●母の見た戦争
8月6日、母が爆心地から3キロの己斐(こい)町(今の広島市西区)で被爆したとき、私は母の胎内にいました。その日、母は体調が思わしくなかったので婦人会の勤労奉仕を休み、近所の人と話をしていました。
そして、8時15分原爆投下。母は建物の影にいたので軽いけがですみましたが、婦人会の多くの人がやけどを負い、広島市内からも大勢の人が逃げて来ました。男女の区別もつかない、幽霊のような人々。母は救護を手伝いましたが、医者も薬もない中のことです。傷に湧いたうじを取ったり、ジャガイモのおろし汁をやけどに塗ったりと、そんなことしかできなかったと言っていました。
手当てをしても、うめき声が止んだと思ったら亡くなっていたというありさま。真夏なので、急いで火葬しなければなりません。次から次へ遺体が運ばれてきて、トタンに寝かせ、まとめて火葬しました。家族の安否を尋ねてくる人のために、遺体の名札や服の一部を切り取っておきましたが、一人ずつ火葬できなかったので、結局はどれが誰の骨か分からなかったそうです。
●命助かっても
義理の姉は、体調不良で仕事を休もうとしたところ、父親にとがめられ、出社して被爆しました。きれいな人でしたが、大やけどを負い、左半身にケロイドが残りました。それを隠すため、いつも長袖、長ズボンを着ていました。
父親は、無理に仕事に行かせたことをずっと後悔していたそうです。
●被爆者として
私を含め家族全員無事だったこともあり、私は被爆者であるという実感がありませんでした。しかし、高校生になったある日、テレビ番組で、「原爆小頭症」として生まれた胎内被爆者の存在を知ります。
同じ胎内被爆者でも、何事もなく成長した私と、寝たきりの人。原爆小頭症の人々が言葉で伝えることのできない戦争の愚かさ、むなしさ、そして平和の尊さを伝えなくてはならないという思いが私の中に生まれました。
●誰でもできる平和への努力
私は今、各地の学校で語り部として活動しています。世界平和というと、壮大で漠然とした感じがするかもしれませんが、平和への努力は誰でもできます。思いやりの心を持ち、身近な平和をつなげていくこと。自分の命を大切にすること。それが、生きたくても生きられなかった人、原爆により一瞬で命を奪われた人に対して、私たちにできることだと思っています。
・杉ケ峠防空砲台跡(米川地区)
敵の飛行機を迎撃する目的で設置が進められていましたが、完成前に終戦となりました。
・慶雲寺防空壕跡(豊井地区)
寺の裏山の防空壕に爆弾が落ちて10人が亡くなり、供養のために観音像が建てられました。
・小深浦湾の洞窟(笠戸島地区)
戦時中、舟艇を隠すために掘られたと言われています。
※戦争遺跡の中には、私有地を通らなければ行けない場所があります。無断侵入などの迷惑行為は絶対にしないでください。
参考資料:豊井はかせになろう(豊井小学校開校140周年記念誌)
取材協力:金清陽子さん、金近衛さん(故人)、工藤洋三さん、慶雲寺、中村啓さん
■1分間の黙とうを
原爆死没者の冥福と先の大戦で亡くなられた人々を追悼し、世界恒久平和の実現を祈念して、1分間の黙とうをささげましょう。右記の日程でサイレンを吹鳴します。
・8月6日(水)8時15分…広島原爆の日
・8月9日(土)11時2分…長崎原爆の日
・8月15日(金)正午…戦没者を追悼し平和を祈念する日
※気象状況によっては、予告なく放送を中止する場合があります。
問い合わせ:総務課
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