くらし [特集]戦後80年 平和の願いをつなぐ
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- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県大刀洗町
- 広報紙名 : 広報たちあらい 令和7年8月号
令和7年8月で終戦から80回目の夏がやってきます。戦争を知らない世代が増える中、私たちは戦禍(せんか)の記憶、平和の尊さをどのように伝えていくべきでしょうか。
本号では、インタビューを通して戦争の悲惨さや平和の大切さについて考えます。
◇東洋一と謳(うた)われた航空基地
大正8年(1919)年、国内で4番目となる陸軍飛行場「大刀洗飛行場」が開場されました。その後に次々と開設された関連施設を含めると面積は約152万平方メートルと、その規模は「東洋一」と評されるほどでした。
◇大刀洗空襲
昭和20年(1945)年3月27日に、74機のB―29(米軍爆撃機)が飛行場や航空廠(しょう)、第五航空教育隊の一部に爆弾を投下。同月31日には106機が太刀洗航空機製作所や第五航空教育隊に爆弾を投下しました。いずれの日も1,000発以上の爆弾が投下され、犠牲者は600〜1,000人を超えたと言われています。飛行場や主要な建物はこの空襲により、壊滅的な被害を受けました。また、空襲では、下校中に頓田の森(現朝倉市)に避難した国民学校の生徒など幼い命も奪われました。
◇概要
・大刀洗陸軍飛行学校
昭和15年開校。飛行兵養成施設として作られる。特攻基地として有名な知覧は同校の分教所。
・大刀洗航空廠(しょう)と技能者養成所
大刀洗空襲大刀洗飛行場に併設されていた材料廠(ざいりょうしょう)が昇格したもので、主に陸軍機の修理や整備を行っていた。また、その技能者を養成するための施設が開設された。
・第五航空教育隊
昭和14年に開隊。当時は日本最大の航空教育隊と言われていた。飛行機の修理・整備や改良・改造を施す航空技術兵を養成。
■戦争経験を聴く
大刀洗空襲を経験した庄島さん。昭和20年3月27日の出来事を、今なお鮮明に覚えているといいます。当時の記憶と空襲後のご家族の暮らしについて聞きました。
庄島美智子さん 昭和9年生まれ
◇忘れられない、あの日
小学4年生の春休み、私は学校で飼っていたウサギのえさやり当番でした。実家は北山隈で大刀洗飛行場と隣接し、当時通っていた大刀洗小学校からは4キロ以上離れていました。あの日は、その道のりを生後6か月の妹をおぶって学校へ向かっていました。
えさやりを終え、帰宅途中に診療所のあたりを歩いていると、突如見たこともない、大きくて美しい機体が現れました。日本の飛行機だと信じて疑いませんでした。足を止めて眺めていると、バラバラと飛行機から落下物が投下され、凄(すさ)まじい爆発音、続けて地響きが起こりました。
混乱の中、近くの杉林へ逃げ込み、ひたすら震えながら飛行機が去るのを待ちました。
静けさが戻り、急いで家に向かいました。父は戦争で長く家を空けており、母は弟たちと田んぼに出ていました。家は大丈夫かと不安で仕方がありませんでした。山隈まで来ると、辺りは火の海になっていました。道は爆弾で破壊され、負傷した兵隊や多くの死体であふれていました。現在の菊池橋まで来たものの、家に帰り着けず立ち尽くすしかありませんでした。
日が暮れ始めた頃、母の知り合いらしき人から「あなたの家はやられて、燃えとるばい。可哀想に。もうみんな、死んでしもうたけん、ばあちゃんの所に連れて行ってやろう」と声を掛けられ、高樋にある祖母の家へ向かいました。祖母は私たちの無事を大変喜んでいました。その夜遅く、戸を叩く音が聞こえ、恐る恐る開けると、そこには母と弟二人が立っていたのです。上の弟は頭から血を流し、母は爆風で服はボロボロ、体は腫れ上がり、立っているのがやっとでした。
死んだと思っていた家族との再会に、抱き合って喜びました。父はのちに、高樋を訪ね家族の無事を知りました。奇跡的に家族全員が助かったのですが、ここから苦しい日々が始まりました。
◇空襲から立ち上がるため
住んでいた土地にはたくさんの爆弾が落とされ、家や畑の修復は不可能に思えました。約3か月間、祖母の家に世話になり、その後は知り合いから借りた倉庫での生活が始まりました。お風呂もトイレもなく、雨露をしのぐだけの小さな倉庫。小川から水を汲むことから一日が始まり、家族が重なり合って眠りました。両親は畑の修復作業のため、一日中働きました。配給では足りず、とにかく食べる物がありません。草、昆虫、川魚、拾った芋など、何でも食べました。ただ、家族が捕まえた野ウサギだけは食べられませんでした。当番で学校に行かなければ、爆弾にやられていたかもしれない。そう思うと、ウサギは命の恩人でした。
そんな生活が1〜2年続き、両親の懸命な努力で、家があった場所に納屋を建てることができました。そして納屋の半分で生活するようになり、やっと我が家と呼べるような場所を再び作ることができたのです。
今の自分があるのは、この辛い経験を乗り越えたからだと思っています。乗り越えられたことは誇らしいことです。しかし、戦争への怒りや悲しみ、記憶は消えず、私の中で戦争はいまだ終わっていないように感じます。命を奪う戦争は絶対にいけないことです。私の経験を伝えることで、次の世代に命の大切さを伝えられたらと思っています。
■平和への想いを聴く
昭和19年、青木さんは父親を先の大戦で亡くしました。戦争が青木さんのご家族にもたらした影響、そして平和への強い願いについて聞きました。
大刀洗町遺族会会長 青木義雄さん 昭和14年生まれ
◇記憶の断片をたどって
私の父は、生後半年で祖父母がブラジルへ移民したため、曽祖父母のもとで育ちました。農業で家族を支えていた父は、昭和17年に久留米の第48連隊に入隊、出征しました。国鉄久留米駅で日の丸の旗を振って父を見送った記憶はありますが、それ以外の父にまつわる記憶はほとんどありません。
約2年後、父は中国雲南省で命を落としました。父の戦死を知らせたのは、家族のもとに届いたたった1枚の紙でした。
◇やるせなさ今も続く
父が亡くなった後、母が一手に家業を引き継ぎました。幼い私たちを育てるため、牛馬が動力の大変な農業を継ぎ、弱音を吐かず懸命に働いていました。
母は時折、父の話をしてくれました。魚釣りが好きで、家族思いの優しい人だったと。父は親の顔を知らずに育ったため、「両親に会ってみたい」としきりに話していたそうです。両親に会えぬまま戦地に向かい、幼いこどもたちと母を残して生涯を終えた父を想うと、今もやり場のない気持ちになります。
◇平和の大切さを今一度考えて
終戦から80年が経ち、戦争を知る世代は少なくなりました。今の日常から想像することは難しいかもしれません。ですが、この節目の年に、戦争を二度と繰り返してはならないこと、平和への想いを、次の世代の人に改めて考えてほしいと心から願っています。
■今、そしてこれから私たちにできること
戦争の記憶は時間とともに薄れがちです。現在、世界では武力侵攻や内戦のニュースが途切れることはありません。この現実から目を背けず、平和の尊さを考える必要があります。この夏、戦争を知り平和について学び、行動してみませんか。
◇人権朗読会「大刀洗空襲〜あの日を忘れない〜」
日時:8月3日(日)午後2時開演(午後1時30分受付開始)
会場:大刀洗ドリームセンター2階展示ホール
入場料:無料
出演:ナレーションサークル風(手話通訳・人権パネル展示有り)
申込:不要
問合せ:生涯学習課生涯学習係
【電話】77-2670
◇戦没者追悼式
戦争の惨禍(さんか)と平和の尊さを次世代へ伝えるため、大刀洗中学校生徒(一部)の参列と献花を予定しています。一般の方も献花いただけます。
日時:8月7日(木)午前10時〜正午
会場:大刀洗ドリームセンタードリームホール
申込:不要
問合せ:福祉課高齢者福祉係
【電話】77-2266
◇大刀洗平和記念館・戦跡地巡り(公民館講座)
大刀洗平和記念館や戦跡地を見学して、戦争の悲惨さや平和の尊さについて学びませんか。
日時:8月30日(土)午前9時〜正午
会場:大刀洗中央公民館1階第1研修室
内容:座学とフィールドワーク
※マイクロバス利用
定員:17名程度定員になり次第締切
参加費:無料
申込方法:電話または生涯学習課窓口
申込締切:8月18日(月)
申込み・問合せ:生涯学習課生涯学習係
【電話】77-2670
問合せ:企画財政課企画係
【電話】77-0355