くらし 輝く島原人 THE SCENE Vol.92 島原に生きる

■努力の積み重ね以外に近道はなし

「人生の達人」
宮原照彦(みやはらてるひこ)さん(73)
昭和26年、南島原市南有馬町に生まれる。日本体育大学を卒業後、高校の保健体育科教諭として教壇に立つ。在職中は県立高校、県教育庁体育保健課などに勤務し、学力向上はもとより学校改革や生徒指導、部活動の振興、本県スポーツの振興や競技力向上など精力的に取り組む。長崎南高等学校校長で定年退職を迎えた翌年に本市教育長に就任。生涯にわたり本市はもとより、長崎の教育・スポーツの発展・振興に尽力。
レスリング競技においては、全日本選手権大会や世界レベルの大会などで活躍し、昭和51年、カナダ・モントリオールオリンピック(グレコローマンスタイル62kg級)への出場を果たす。その後、レスリング協会における要職を歴任し競技力の向上に貢献。現在、九州レスリング協会の会長を務める。
島原市教育委員会教育長(H25~H29)、九州レスリング協会会長(H25~)全国高等学校体育連盟表彰(H24)、日本レスリング協会功労者表彰(H26)、生涯スポーツ功労者文部科学大臣表彰(R5)、端宝小綬章(R7春)ほか。上新丁在住。

▽教育者として-人生に引退なし-
長きにわたり教育とレスリング競技に情熱を注ぎ続け、現在、九州レスリング協会会長を務める宮原さん。レスリングで培われた不屈の精神でこれまで数々の困難を乗り越えてきました。「レスリングは高校から始めました。昭和44年の長崎国体に向けて島原高校と島原工業高校がレスリングの強化指定校になっていました。将来の就職を考えて工業高校に進み、中学では柔道をしていたので、先生に勧められてレスリング部に入ったんです。」と、振り返ります。
その後、日本体育大学に進み、卒業後は高校の体育教諭として教職の道を歩み始めます。「人が人を教えるということは、崇高でとても大切な仕事だと思いました。そして子どもたちに文武両道を伝えるためには、自身が教員として働きながらレスリングも続けることに価値があると思ったんです。」
教員になって3年目。大学時代から実績を積み重ねていた宮原さんは、長崎から戦後初のオリンピック選手としてモントリオールオリンピックへの出場を果たします。「当時の赴任校である鹿町工業高校にはレスリング部がなく、柔道部の顧問として指導をしていました。体力さえ落とさなければ技術は簡単には衰えないという信条で、出勤前に10キロのロードワークをしていました。校内マラソン大会では生徒にも負けなかったですよ。」と、語ります。
オリンピック出場を区切りとして現役から退き、教育行政、学校経営、レスリングの競技力向上など、何事にも全力で取り組んできた宮原さん。定年退職の翌年からは本市教育長を務めました。
「本市はもとより、長崎の教育・スポーツの向上のため、いろいろなことに率先して取り組みました。日々全力を尽くす。毎日の小さな努力の積み重ね以外に近道はないということです。難しいことですが生徒にも諭していました。島原高校時代は、担任を持ち、部活の顧問、高体連の専門委員長、県レスリング協会の理事長もしながら10年間やり遂げました。忙しいほどやりがいがある。プライドを持ってやり遂げる。子どもたちも学習やスポーツを通じて、頑張る意欲、苦しさを乗り越える忍耐力を身に着けてほしいと思います。」と、自身の経験から得た子どもたちへの思いを語ります。
「このたび、叙勲の栄に浴することとなりましたが、これからも精進してくださいという意味も込められているのかなと私は思っています。人生に引退はないということです。教え子たちが教育現場をはじめ、いろいろな場所で活躍している姿を見ることが出来るのは教師冥利に尽きます。これからも後進の指導や育成など、私にできることをやっていきたいです。」と、今後の展望を語っていただきました。