文化 湯前歴史散歩 相良三十三観音めぐりと御詠歌(1)

9月の秋の彼岸には相良三十三観音めぐりが行われます。今回は観音めぐりのことを紹介します。

■三十三観音の起源
三十三観音とは、観音菩薩が衆生(しゅじょう)を救うとき33の姿に変化するという信仰に基づき、三十三ヶ所の霊場を巡拝するもので、近畿地方を中心とする西国三十三所が11世紀ごろに成立しました。時代が下り江戸時代になると、各地に西国三十三所になぞらえた観音霊場がつくられました。
では、相良三十三観音札所が選定されたのはいつだったのでしょうか。

■三十三観音の御詠歌と井口氏
手掛かりとなるのは、各札所にある御詠歌(ごえいか)です。御詠歌とは仏の教えを五・七・五・七・七の和歌の形式に詠んだものです。相良三十三観音の御詠歌は、各札所に2首ずつあり、1首は井口武親、もう1首は井口美辰が詠んだものです。井口武親は藤右衛門(とうえもん)と称して人吉藩の家老を勤めた人物で、元禄3(1690)年2月2日に63歳で亡くなっています。つまり元禄3年2月以前には、井口武親によって選定されていたと考えられます。
さて、もう一人の御詠歌作者井口美辰は、井口武親のひ孫にあたる人物で、石見と称し、やはり家老を勤めた人物です。美辰は人吉藩で家中騒動や藩主の早世が相次いだ時代に家老を勤め、相良家存続のために尽力した人物です。美辰は明和8(1771)年、時の藩主の思し召しにかなわぬことがあったらしく、知行所(ちぎょうしょ)のあった奥野村中山(現多良木町奥野)に隠居・在宅を命じられました。美辰が隠居した中山には、相良三十三観音第二十八番札所の中山観音があります。隠居を命じられてから23年後の寛政6(1794)年、美辰は武親が詠んだ御詠歌に並べて自身も御詠歌を作り、巻物にしたためています。こうして武親と美辰の詠んだ御詠歌が今に伝わっています。
御詠歌を詠んだ2年後の寛政8(1796)年、美辰は中山観音に逆修碑(ぎゃくしゅひ)(生前に自身のために建てる供養塔)を建てています。そこには次の和歌が刻まれています。
「かくて世に あるてふものを おひが身の いつをかぎりの いのちなるらむ」(こうして世の中に生きながらえているものの、老いた我が身の、いつを限りとする命なのだろうか)
美辰はそれから7年後の享和3(1803)年8月4日、70歳で亡くなりました。

教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)