文化 まるごと博物館 235

■馬背野峠(ませのとうげ)(高鼻公園)
馬背野峠は、阿蘇溶岩が荻台地を竹田盆地に向かって細長く流れ下った舌状台地の突端にあり、竹田市域を眼下に望むとともに祖母・久住などの山々を一望できる、とても見晴らしのよい峠である。また、歴史的に重要な役割を果たしてきた要所でもある。
その一つは、文化8(1811)年に起こった四原(恵良原・葎原・柏原・菅生原)の百姓一揆。この一揆は、「世直し」を旗印に掲げた農民4千人が城下の竹田に押しかけ、藩に対して二十数項目からなる藩政の改革を要求した農民主導型の一揆で、藩はこの要求を受け入れ、処罰者を出さなかったことは特筆すべきである。この一揆の蜂起の狼煙を上げ、農民の集結地となったのがこの馬背野峠(当時は新兵衛坂)であった。その後、一揆は他藩にも飛び火して、江戸期を通じて最も激しい騒動へと発展していった。
もう一つは、明治10(1877)年に起こった「西南の役」の動乱。大分県で最初に薩摩藩軍と官軍が砲火を交えたのが、この馬背野峠である。熊本田原坂の戦いに破れた西郷軍は、宮崎県を制圧して兵を延岡に集結し、大分方面に進攻するために先導隊が竹田町を占拠した。熊本方面からの官軍は、熊本黒岩から大分県に入り、そのうちの一隊は山崎から恵良原に進み、馬背野峠に指令所を設けて竹田進攻を図った。これに対して西郷軍は、菅生・宮砥方面から恵良原の官軍を挟むように攻撃を仕掛け、この馬背野峠で終日激しい戦闘が行われたのである。
一方、この峠は昔から人々の信仰の場、憩いの場としても親しまれてきた。昭和62(1987)年、「高鼻公園」に整備された。毎年元日の「荻地域新春歩こう会」では、参加した皆さんがゴールであるこの高鼻公園で初日の出を拝み、世の安寧を祈っている。

(本田隆憲)
参考:荻町史