- 発行日 :
- 自治体名 : 鹿児島県指宿市
- 広報紙名 : 広報いぶすき 2025年9月号
太平洋戦争は昭和16年(1941)から昭和20年(1945)まで約4年間、日本と、米国をはじめとした連合国の間に起こった戦争です。合併以前に刊行された、指宿市誌・山川町史・開聞町郷土誌には戦争が長引くにつれ、激しさをます空襲や最後の手段として用いられた特攻攻撃など指宿市内で起こった凄惨な事実が記されています。
令和7年は戦後80年を迎え、終戦当時10歳だった人が90歳になり、戦争を体験した皆さんのお話を聴く機会は少なくなっています。
今回は、戦争体験者の貴重なお話とともに私たちの生活に溶け込んでいる戦争の跡(以下戦跡)について特集します。
■戦争と幼少期
福元区に住む今村善哉(いまむらよしや)さんは、太平洋戦争開戦当時、5歳でした。今村さんは幼少期を「昔は美しい海岸が今の新栄町の辺りに広がっていて、よく遊びに行っていました」と振り返ります。しかし、米国の戦闘機が鹿屋の海軍航空基地に向かい日本の航空機を撃墜する様子を見て、恐怖を感じたことも忘れられません。
■子どもたちも犠牲に
昭和20年(1945)、アメリカが沖縄を占領し、次に上陸が予想された山川には多くの部隊が配属されました。山川も空爆の対象となり各家庭には防空壕(ごう)がつくられました。「畳二畳ほどを縦に並べたくらいの防空壕が家にあり、よくそこへ避難していました」と語ります。6月20日、戦争が激化する中、通っていた山川国民学校では、機銃掃射の犠牲となった生徒たちがいました。「先生の「逃げろ!」の掛け声で一番先に校庭の防空壕に避難しようとした子どもたちが犠牲になりました。あの頃は校庭の防空壕に逃げるように教えられていたんです。かえって教室にいた方がよかったのに」と、訓練通りに行動した結果、命を落とした子どもたちの無念を語ります。
■すべてが燃えた空襲
終戦間近の8月9日と11日、山川は決定的な空襲に見舞われます。焼夷(しょうい)弾(火災を起こすことを目的につくられた爆弾)が投下され、住居や施設の大半が焼失しました。「空襲警報があり、すぐに山にあった防空壕に避難しました。機銃を打つ「ダダダッ」という音と薬きょうが落ちる「バラララッ」という音が響いていたことを覚えています」と当時の恐怖を語ります。警報解除後、戻った家は灰になっており、今村さんはただ泣くことしかできず「戦争はしてはいけないものなんだ」と、その時、強く感じたと語ります。
■終戦と混乱
8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れ、15日に終戦が宣言されました。「自分たち子どもは終わったんだ、という思いしかなかったですが、大人たち、特におじいちゃんおばあちゃんが泣き崩れていました」とその時の様子を振り返ります。住民の間では「アメリカ軍がやってくる」とのうわさが広まり、鷲尾岳や池田湖に大逃避行が始まりましたが、数日後にはデマだと分かり、混乱は収束しました。
■復興へ
戦後、今村さんは「カヤで作った家にしばらく住んで少しずつ家を直していきました」と語ります。空襲で70パーセントが焼失した福元区の復興は、昭和28年(1953)まで続きました。「学校に持っていく弁当には芋と漬物、家で食べるご飯は米3割と麦7割で友だちと比べ合ったものです」と、当時の生活を振り返ります。また、戦争で夫や子どもを亡くした女性たちが復興を支えたことにも触れ、「農業やかつお節製造にたくさんの方が携わり、復興に尽力しました」と語りました。
■今、伝えたい思い
戦後80年が経った今、ロシアによるウクライナに対する軍事侵攻や、イスラエル軍のガザ地区への攻撃などたくさんの争いが世界中で行われています。「拳を握ってみなさい。これで人を叩けば痛いだろう。自分の拳はもちろん、相手も痛い。当然、人を叩けば叩き返されもする。これを人の命を使って国と国がやるのが戦争というもの。絶対にしちゃいけない」と今村さんは力強く話しました。
・戦没学童慰霊之碑は今村さんのお話にあった、犠牲になった子どもたちのことを後世に伝えています。(山川庁舎横、旧山川小学校跡地)
▽今村善哉さん(89歳・後馬場)
昭和11年山川に生まれる。
5歳で太平洋戦争が始まり、9歳のころに終戦。農業や部品メーカーの経営などを経て、平成6年から福元区長に。令和5年までの約30年間山川地区の発展に尽力する。