くらし 〔戦後80年特集〕戦跡(せんせき)の声(2)

■戦争の声を聴く〜後輩がつなぐ先輩の記憶〜
指宿高校の生徒2人が、12月に小中学生を招いて行われる発表会で、戦争について紹介するため、戦争体験者にインタビューを行いました。インタビューに応じてくれたのは大吉通子(おおよしみちこ)さん(95歳・潟口)。大吉さんは昭和18年(1943)に旧制指宿高等女学校(現指宿高校)に入学。6年間の学校生活のうち3年間を戦争と共に過ごしました。

(秋元さん)どんな学生生活を送っていたのですか。

(大吉さん)戦時中は農作業と飛行場建設の奉仕作業をしていました。農作業では学校で作った堆肥を片道3・4キロメートル離れている水迫地区に手押し車で運ぶ作業を1日に4回ほど繰り返しました。飛行場の建設では田良浜にあった海軍航空基地まで歩いて行き、到着したら籠に砂を入れてもらい、延々と運び続ける。私は左足が不自由だったけど人並みに作業を行いました。とても辛かったです。一番辛かったのは滑走路づくりの砂運びでした。「普通なら学校に行って教室で勉強しているのになんでこんなことをしなきゃならないんだろう」と同級生と話をすることもありました。

(吉元さん)戦時中の指宿はどんな様子だったんですか。

(大吉さん)近所の知り合いのお兄さんたちがいないと思ったら召集されたと聞かされました。戦時中は若い男性はほとんどいませんでした。まちの人たちは、戦闘機に狙われないように目立つ色の服を着ていなかったです。戦時中は世の中に色彩がありませんでした。色がなかったんです。ある日(※)飛行機がやってきて焼夷(しょうい)弾を落としました。私は防空壕(ごう)に逃げ遅れ、爆発の音がするたびに「次は私にあたるのでは」とヒヤヒヤしました。空襲がやむと不思議な音が聞こえてきました。外に出ると手押し車にけが人をのせた行列ができています。私が聞いた音は、この人たちがわんわんと泣く声でした。召集されていない産婦人科医の病院に並んでいるのです。付き添いの家族の表情と悲痛な声は今でも忘れられません。
※『指宿市誌』には昭和20年(1945)3月18日から指宿が空襲の標的となった事が記されています。

(秋元さん)戦争の時代を経験して、今の若い人たちにどんなことを伝えたいですか。

(大吉さん)もう2度とあんな戦争はしてくださるな。私たちは防空壕に逃げ込むことが何度もありましたから。私の学生生活は何もできずに終わってしまった。皆さんは良い時代に育っているわけだから、それを大事にしてください。仲良くね。

・哀惜の碑は指宿海軍航空基地から特攻で飛び立った隊員たちの慰霊のために建立。大吉さんは基地の建設に知らず知らずに携わっていたそうです。(田良浜)

〜インタビューを終えて〜
・指宿高校2年 秋元悠里(あきもとゆうり)さん(湯之里)
戦争の恐ろしさや当時の指宿の様子について詳しく知る事ができてよかったです。今が平和な時代だと理解して生きていきたいと思います。

・指宿高校2年 吉元太一(よしもとたいち)さん(下里)
実際に戦争を経験した大吉さんの話を聞けて勉強になりました。大吉さんから聞いた戦争についての話を戦争を知らない若い世代の人に伝えていきたいです。

■指宿海軍航空基地に関する資料を指宿図書館で展示しています
指宿図書館では戦後70年に行った指宿海軍航空基地に関する企画展示に、新たに収集した資料を追加し常設展示を行っています。今回、大吉さんのインタビューで触れられた基地建設の様子が分かる写真も見ることができます。
場所:指宿図書館2階
開館時間:
・9時〜18時30分((火)〜(金))
・9時〜17時((土)(日)(祝))
入場料:無料

■地域に残る戦跡
戦争に関わる軍事施設(航空基地などを含む)や爆撃跡、防空壕(ごう)や慰霊碑などを総称して戦跡といいます。戦跡は身近な場所にも残っています。今回は戦争の記憶を現代に伝える市内の戦跡を紹介します。

・戦時中につくられた防空壕(石嶺)
※防空壕の中は、崩落の危険や一酸化炭素中毒になるなどの危険があります。不用意に近づかないでください。

・戦時中に沈没した湖南丸の生存者を山川の漁船が救助。その縁から沖縄県戦時遭難船舶遺族会により「水底(みなそこ)のうた」が建立された(山川運動場)
※山川運動場は工事中のため令和7年度は立ち入りができません。

・戦争に行く前に自身の名前を記した水垣を奉納した(南方神社)

・社殿の柱に弾痕の跡が残ると伝わる(徳光神社)

・山川石でつくられた石塀は空襲による火災でオレンジ色に変色したと伝わる(福元区)

・鉄かぶとの下には比島で戦った4147柱の遺骨が埋葬されている(花瀬望比公園)

※詳しくは本紙をご覧ください。

声を聞いてみたい。ここ数年でテレビや新聞・インターネットでは戦争に関するニュースを目にすることが増えました。戦後80年は現在80歳の人が生まれた年です。戦争を経験した人たちがどんどん少なくなる中、貴重な経験談を紹介できればという思いでこの企画が立ち上がりました。学校で知識として学んでいても、実際の声を聞くと現実味を増し、改めて戦争の恐ろしさが分かります。
また、戦後の復興を境に、戦争に関する遺跡はどんどん姿を消しています。地域の皆さんからの情報を基に戦跡を探す中、戦争に関する記憶が薄れていっていることを実感します。
同じことを繰り返さぬよう、私たちができる事は戦争の恐ろしさを語り継いでいくことだと思います。

問合せ:人事秘書課秘書広報係