文化 たるみず歴史・文化散歩 第63回

■鹿児島神社境内の石碑
○4つの石碑
下宮の鹿児島神社の大きな鳥居をくぐると、境内の東側に大きな石碑が4つ並んでいます。
1つ目は、西南戦争において戦没した人々の慰霊碑で『招魂碑』と彫られています。〔明治12(1879)年建立〕
明治10(1877)年2月、明治政府に不満を抱いていた旧薩摩藩内の士族の人々は、西郷隆盛とともに東京に向かって進軍を始めました。これが西南戦争の始まりです。垂水郷の士族の若者たち450人も随行して熊本を始め、九州各地で明治政府の官軍と戦い、その結果85人が命を落としました。生還した人々はその後、垂水の政治や行政、産業発展などに大きく貢献していることを考えると、有為な若武者たちが沢山亡くなったことが悔やまれてなりません。平成31(2019)年には、修復と同時に、従軍者全員の名前が彫られた石碑も傍らに建てられました。
2つ目は、日清戦争の戦死者の慰霊碑で、『忠魂碑』と彫られています。〔明治33(1900)年建立〕
この戦争では垂水村の7人が戦死しました。日清戦争は外国(中国の清王朝)と初めて戦った近代戦争であり、戦勝の結果として台湾などが中国から日本に割譲されました。石碑の裏面には漢文が刻まれており、『7人の戦死者の勇敢な戦いぶりに対して、郷土の垂水島津家に対する忠誠はもとより、このたびは天皇への忠誠も尽くして戦死したのだ』と称えています。大陸での来たるべきロシアとの戦いも念頭に、天皇を中心とした近代国家の国民のあり方に村民を教化する文脈も見てとれます。
3つ目は、日露戦争戦死者の慰霊碑です。日露戦争では日本は旅順、奉天等の陸上戦や日本海海戦に勝利、またロシア国内では血の日曜日事件等の第一ロシア革命の混乱もあって日本は勝利しました。ポーツマス条約ではロシアから南樺太などの割譲を受けましたが、日清戦争を上回る31人の戦死者を出しました。慰霊碑には、戦死者の階級と氏名が彫られています。
4つ目は、大正3(1914)年1月の桜島噴火災害による河川改修工事の記念碑で『本城川外六河川改修記念碑』と彫られています。〔大正5(1916)年建立〕
※六河川とは本城川、田上川、是井川、中俣川、飛岡川、鶴田川です。
桜島大噴火は、噴石等による村民の死傷者は記録されていませんが、降灰や軽石等の火山噴出物が村内に厚く広く積もりました。中でも火口に近い小浜集落等は家の軒端くらいまで埋まる有様でした。その後の降雨によって堆積した噴出物は六つの河川などに流れ込んで泥流、土石流となって、田畑や家屋等に大きな被害をもたらしたのです。