- 発行日 :
- 自治体名 : 鹿児島県霧島市
- 広報紙名 : 広報きりしま 2025年8月上旬号
(80 years since the end of the war)
全国に空襲警報が鳴る
まるで皆が処刑されるかのように
狙われるのは
たいてい端にいる誰か一人
今日は君じゃない 警報解除
※ロシアの攻撃により2023年に亡くなった作家、ヴィクトリア・アメリナが残した言葉です。
戦後80年。これは同時に日本で戦争のない歳月を示しています。
今回の特集は、今の日常が続くための『平和』の意味を考えます。
日本の平和の裏で、世界では今も戦禍に苦しむ人たちがいます。
※モノクロ写真(本紙PDF版4ページ参照)は戦時中の霧島市、カラー写真は現在も戦時下にあるウクライナの写真です。
終戦を迎えて80年、日本では戦争のない日々が続いています。そんな日本でも、かつて一般人を巻き込んだ地上戦が繰り広げられました。戦場となった沖縄は米軍による爆撃で、火の海に変わりました。約5カ月に及ぶ戦闘で、約10万人の一般人が亡くなったといわれています。
■世界が一変した日
今の日本が、ある日突然戦場になると誰が想像できるでしょう。
突然、自分の住むまちが戦場になる。それは映画や歴史の中だけの話ではありません。
ロシアがウクライナに侵攻してから3年が経過し、鹿児島には今もウクライナから避難している人がいる一方、鹿児島での避難生活を止めて祖国に帰った人もいます。「戦争が始まった日のことはよく覚えています。21世紀のヨーロッパで戦争が起きるということが信じられませんでした」と話すのは、約2年間の避難生活を経て、昨年7月にウクライナへ帰郷したディシュカント・アンナ・マリアさん(23)です。
「開戦のニュースを聞いた瞬間、世界がひっくり返ったように感じました。多くの人々がおびえ、すぐに避難できるように服を着たまま眠りにつく毎日でした」と当時を振り返るマリアさんは、今も空爆などでいつ命を落とすか分からない日々を送っています。「一番怖いのは、大切な人が死んでしまうこと。私には家族だけでなく、戦いや支援物資の供給などで前線にいる友人もいます。その人たちの身を案じない日はありません。今夜、ミサイルやドローンが大切な人の命を奪わないよう、ただ祈ることしかできない」と沈痛な表情を浮かべます。
戦争が始まり、ウクライナから避難するように家族から何度も促されたというマリアさん。そんな時、JSUS(ウクライナ学生支援会)を通して、もともと文化などに興味があった日本に行く機会を得ました。「鹿児島での生活は、平和な日々を思い出すきっかけになりました。同時に、家族やウクライナ国民全員が戦争の恐怖に苦しんでいるのに、私は安全で満ち足りた場所にいるという『罪悪感』に押しつぶされそうになりました。この感情を抱きながら、それ以上生活することはできませんでした」とウクライナに帰ったきっかけを話します。
■祈りながら眠る夜
日本人にとっての何げない日常は、マリアさんにとってはつらく苦しいものにもなりました。「鹿児島に来た最初の週、友達と花火大会に行きましたが楽しめませんでした。花火の音が爆発音に似ていたからです。全身が震えるほど怖くなってすぐに家に帰り、窓を全部閉めて、音を消そうとしました。あの美しい花火でさえも、これから先は私にとって戦争と大切な人の死を思い出させるものになるのだと思い知らされました」と表情を曇らせます。
ウクライナ語にも、日本語の「おやすみなさい」という意味に当たる言葉があります。「これは夜に使うあいさつですが、今では『静かな夜になりますように』という意味になりました。今夜も爆発音やサイレンがなく、平和な夜になるようにと願いながら眠りにつきます」