くらし ~戦後80年 記憶の継承~No.3

沖縄戦の終戦から80年を迎えた今日、戦争体験者の減少、戦後世代の増加と相まって、戦争の歴史的教訓が年々風化し、その悲惨さが忘れ去られようとしています。
西原町は、戦争体験者の方々からの貴重な体験談を紹介し、次世代へ継承していきます。

■家族を奪った戦争
(西原町史 第三巻 資料編二 西原の戦時記録より)
西原 仁助(24歳) 軍人

●スワトウでの兵役
21歳の時、徴兵検査を受け、22歳で入隊した。昭和16年に召集され、翌年南支(なんし)(中国南部)に派遣された。私たちの部隊が駐屯したところは台湾から目と鼻の先の広東(かんとん)省スワトウ(汕頭(すわとう))である。部隊名は遠藤大隊青木部隊竹原隊であった。隊員は古年兵(こねんへい)も含めて200人余であった。沖縄に復員するまでの5カ年ずっと南支にいた。我々が南支スワトウの基地に配置された翌日、敵(8路軍)の攻撃を受けた。私たち初年兵は、それまで鉄砲も持ったことがなかったので、非常に怖かった。私たち初年兵(しょねんへい)は、兵舎に囲まれた真中の広場(点呼場)に集められた。古年兵が初年兵の周囲をとりかこみ、守ってくれた。わが軍もこれに応戦し、敵を10人ほど基地の近くの炭焼窯に封じ込めた。翌朝、その10人の中国兵を捕虜にしたが、その後、捕虜がどうなったかわからない。その後、私はずっとこのスワトウ基地の守備隊にいた。その間は敵が攻撃をしかけてくると、我々がそれを追い散らす、ということの繰り返しであった。昭和20年8月ごろになると、スワトウの陣地には1000人余の友軍がいたが、敵はそれを遥かに上まわる1万人余の大軍であった。敵はB29から食料や弾薬の補給を受けていた。B29は、前線基地の敵陣地へ空から武器・弾薬・食糧等を投下していった。普段なら昼でも夜でも外出できる所でさえ行けない状態であった。我々は、昼夜、基地内に封じ込められたままであった。8月14日になると、突然、銃声が止んだ。翌日(8月15目)の早朝、私たちは点呼場に集められ、中隊長から、日本が無条件降伏したことを知らされた。その日、中隊すべてが武装解除させられ、捕虜となった。8月15日から翌年3月下旬までスワトウに捕虜として収容されていた。

●帰還
4月1日に、横浜港に帰ってきた。昭和16年4月1日に浦賀を出て、奇しくも同月日の4月1日に帰還したわけである。私は満5カ年間、南支で日本軍人として兵役に就いていた。昭和21年6月、私は久場崎(くばさき)港に着いた。私たちが最初の帰還者であった。その船に乗っているのはほとんどが本土からの復員兵であった。翁長は、家1軒もなく焼野原と化していた。生き残った100人余の翁長区民は棚原に居住していた。私たちは、その後4回ほど住居を転々と移動した後、現在の翁長に住むようになった。翁長に残っていた家族や親戚はすべて亡くなっていた。この沖縄戦で生き残ったのは身内に1人もいなかった。次男の家族、3男の家族、4男の家族らすべてこの沖縄戦で亡くなった。私は5男であるが、妻子も戦死していた。妻子はどこで、どう亡くなったのか全く不明であるが、島尻で亡くなったとも聞いている。長男(兄)だけは戦前ブラジルへ移民していたので健在であった。

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