文化 このまち大好き!芽室の歴史探訪

■その123「渋山神社」「上渋山神社」「中渋山金刀比羅神社」
めむろ歴史探訪会 後藤正弘

▽「渋山神社」
明治三十七、三十八年頃、入植者有志により堀立草葺きの小屋が建てられたのが神社の始まりとされている。大正六年に社殿が、昭和二年に氏子九戸の寄付により拝殿が完成した。
入植者も年と共に増加し、信仰の拠り所である神社の役割も大きく、地域の中心として催事や清掃、祭儀準備などは若者を中心に受け継がれていた。
戦時中は出征兵士の武運長久の祈願がなされ、戦後は民主化の進展により秋祭りでは若者連中の素人芝居や子ども中心の奉納相撲が催され、多くの人で賑わった。
昭和五十三年、鳥居も鉄製の大鳥居が建立された。平成九年開拓百年を記念して、境内に開拓祈年碑と社標が建立された。

▽「上渋山神社」
大正初期、坂田章氏等が中心となり御神体を「天照大神」とする木柱を建立したのが始まりとされる。大正十三年には有沢氏から境内地の寄進を受けて「天照大神宮」として、除幕遷宮式を挙行した。
昭和二十六年、神社本庁へ所属し、翌年宗教法人設立登記をして、上渋山神社と改称した。昭和三十六年に神殿と拝殿を新築し、氏子全員の出役で完成させた。
昭和五十年、初代宮司の沢田健二氏が他界し、その後宮司不在ながら地域の氏子に支えられてきたが、人口の激減により神社の存続不可能と判断し、中渋山金刀比羅神社と合併し、今日に至っている。

▽「中渋山金刀比羅神社」
中渋山地域には「こんぴらさん」と呼び親しまれた社がある。それが金刀比羅宮である。その門前町は四国は香川県の琴平町にある。
大正八年、天皇行啓記念として現在地の裏側に本殿が造営された。その後拝殿も地域の協力で建立された。昭和二十九年五月の大風で本殿が倒壊する大惨事となった。昭和五十五年、他建物も老朽化が進み、氏子等の本殿再建の高まりにより、開拓八十周年の記念事業の一環として本殿造営が決定された。
地域氏子の全面的協力もあり年内には落成し、十二月十日に森本宮司による遷座祭が厳かに執り行われた。旧拝殿は御祓いの後に焼却された。神社の名称も氏子の支えと心の拠り所として「中渋山金刀比羅神社」とする呼び名で統一することを決定した。

▽引用・参考文献
「渋山八十八年の歩み」
「中渋山開拓八十周年」
「渋山南開拓百年史」