- 発行日 :
- 自治体名 : 福島県郡山市
- 広報紙名 : 広報こおりやま 2025年8月号
終戦から80年となる今年。戦争を体験し、その記憶を伝える人は少なくなっています。
しかし、戦争は決して遠い昔の、遠い国の話ではありません。かけがえのない平和を未来へつないでいくために、改めて郡山の戦争を振り返り、一緒に考えてみませんか。
■当時を知る
○かつて郡山は「軍都」だった
まちに豊かな音楽が流れ、「楽都」として全国に名をはせる現在の郡山市。皆さんはここがかつて「軍都」だったことを知っていますか?
太平洋戦争が始まった1941年頃、市内には陸軍の部隊や海軍航空隊が置かれ、飛行機燃料の添加剤や落下傘などを製造する軍需工場も多く存在していました。地理的にも、関東と東北、日本海側と太平洋側を結ぶ交通の要であったことから、郡山は1944年に国から「軍都」に指定されました。
戦況が激しくなるにつれ、市民の暮らしは大きく変わりました。多くの男性が出征していくと、人手不足を補うために学生や子どもたちは勤労奉仕として働き、まちでは空襲に備えて、市民が防空演習や防空壕造りに追われるようになりました。
○若者や子どもたちをも襲った郡山空襲
1945年、郡山は4回の空襲で大きな被害を受けました。
4月12日午前11時過ぎから始まった136機のB29爆撃機による攻撃は、1時間余り続きました。郡山駅東側の保土谷化学工場、東北振興アルミニューム工場、日東紡績富久山工場が主な標的とされ、この日だけで犠牲者460名と県内最大の被害になりました。その中には、学徒動員により保土谷化学工場で働いていた郡山商業学校(今の郡山商業高等学校)、安積中学校(今の安積高等学校)、安積高等女学校(今の安積黎明高等学校)、白河高等女学校(今の白河旭高等学校)の生徒26名も含まれていました。また、郡山駅周辺や方八丁(今の方八町)、横塚地区などにも被害は及び、祖母と息子、幼い孫が一度に犠牲になった一家もありました。
7月29日午前6時頃、郡山駅と長者付近(今の安積黎明高等学校北西部)に大型爆弾が投下され、39名が犠牲になりました。「パンプキン」と呼ばれたこの爆弾は、のちに長崎に落とされた原子爆弾の模擬原爆で、投下練習用として同じ形、同じ重さになるように火薬が詰められていました。
さらに8月9日・10日にも艦載機の攻撃が繰り返され、海軍航空隊(今の田村町金屋)や郡山駅をはじめ広い地域が被害を受け、30名余りが犠牲になりました。
4回にわたる空襲で、市内では約500戸の建物が焼失・倒壊し、530余名もの尊い命が失われました。
◆〔Interview〕猪越 幹雄さん(88才)安積町在住
郡山に疎開し、8才の時に終戦を迎えた猪越さん。戦時中の暮らしや家族への思いを伺いました。
○防空壕で聞いた玉音放送、懸命に働いた母の姿
私は東京の浅草で運送業を営んでいた父母のもとに生まれました。父は私が11カ月の頃に日中戦争に出征し、その後戦病死したので、私は父のことを写真でしか知りません。幹雄という名前は父が付けてくれたそうです。
私が2、3才の頃、母の実家がある郡山に、母と姉と一緒に疎開しました。学校は金透小学校に通いました。今のような立派な教科書はなく、薄い紙を何枚か綴じたようなものでしたね。当時はラジオでよく軍歌が流れていて、自然に覚えて歌っていました。今も口ずさめるくらいです。それから、子どもたちみんなでよくリヤカーを引いて、金属集めをしていましたね。
私たち家族は、今のうすい百貨店の近くに住んでいました。4月12日の空襲はわが家の方にも火の粉が飛んできて、家が燃えてはいけないと町内の人たちが一生懸命水を掛けていて、私もバケツリレーに加わりました。
それからこの辺りももう危ないとなったんでしょう。母と姉と3人で、逢隈村(今の西田町)に移ることになりました。2度目の疎開です。7月の空襲の時は逢隈村にいて、向こうの空に飛行機が飛んでいるのが見えました。
当時困ったのはやはり食べ物です。母がリュックサックを背負って出掛け、自分の着物と引き換えに芋や大根をもらって来てくれたのを覚えています。電気もなかったので、日が暮れる前に食べなさいと言われていましたね。
終戦の日、防空壕の中で玉音放送を聞きました。8才だった私は悲しいとか悔しいとかはなくて、周りの大人たちを見て「ああ、終わったんだ」と。安堵感のようなものがありました。
戦後、母は洋裁の仕事をして私たち姉弟を育ててくれました。いつも夜中までミシンを踏んでいて、母が寝ているのを見たことがありません。女手一つで本当に苦労したと思います。私の最も尊敬する人です。母が亡くなってから、遺品の中に戦地の父から届いた手紙などを見つけました。どれもきれいに取ってあって、2人の愛情の深さを感じました。
戦争に良いことなんて一つもありません。なんと悲惨でむなしいことか。なのに世界では今も戦争をしている。犠牲になられた人たちは今の世をどう思っているでしょう。これからの日本、そして世界が、平和に、愛する家族と穏やかに暮らせることを願っています。