- 発行日 :
- 自治体名 : 茨城県小美玉市
- 広報紙名 : 広報おみたま 令和7年8月号
■あの戦争を生きた私
太平洋戦争の最中、10代で役場職員になった立村薫さん。私たちが暮らす小美玉市が、戦時中の80年前はどのような状況だったのか、穏やかな声で体験談を語ってくださいました。
立村薫(たちむらかおる)さん(95歳)
昭和5年生まれ。10歳のとき、東京から家族で橘村羽木上に移り、13歳から19歳まで役場職員として勤務。現在は長男夫婦との3人暮らし。
◇空襲を知らせる半鐘を懸命に叩いた
昭和18(1943)年、橘国民学校高等科を卒業して、13歳で橘村役場に就職しました。窓口勤務でしたが、空襲があると警報櫓(やぐら)に登って半鐘を叩く役割にもなりました。当時の櫓は木製のはしごを真っ直ぐに立てたような代物で、横棒を手と足でよじ登っていきます。今考えるとよくそんなことができたものだと思います。
数えきれないほど櫓に登りましたが、本当に恐ろしい思いもしました。私が半鐘を叩いていると警戒警報が空襲警報に変わってしまい、米軍のグラマン機が飛んできたのです。それも間近に、操縦する米軍兵士の顔がよく見えました。そしてこちら目がけて機銃掃射をしてきたのです。地上から「伏せろ!」と大声がして必死で櫓の上で身をかがめました機銃弾が櫓の柱にすごい音を立てて当たりました。ピシュッ、ピシュッという音です。今でも忘れられません。
私の5歳上の兄は、青年学校に通い軍事教練を受けていましたから、すっかり軍国少年になっていました。身体が丈夫で、地域の相撲大会で優勝するような人でした。18歳のとき、親の反対を押し切って陸軍に志願し、水戸三十七部隊に入りました。その後、兄はマライ・タイ・ビルマと転戦し、昭和20年2月にビルマで戦死しました。水戸の原隊に残していた爪と髪の毛だけが戻ってきました。
◇戦争下の青春
すべてが戦争一色の時代でした大阪から派遣された橘部隊が橘国民学校(旧橘小学校)に来て校舎の半分を使っていました。全村民の血液検査をするため、軍医と一緒に村内を回ったこともあります。
役場の仕事に使う物も不足していました。区長さんに手紙を出そうにも封筒が無くなってしまい自分たちで作りました。自転車で手紙の配達に出かけ、自転車が壊れては自分で直すということもありました。今振り返ると、物が無いながらに工夫して楽しくやっていたと思います。
本当に大変な思いもしましたが、それでも、役場や村内の人たちが優しく接してくれたことを覚えています。今の方々の青春とは質が違うでしょうけれど、私の青春も楽しかったと言いたいです。
◇若い皆さんに伝えたい
戦争はもうまっぴらです。いいことは何もありません。ドラマで映る戦争の悲惨な光景は、実際にあったことです。戦争は絶対にやらない。若い皆さんには、その気持ちを持っていただきたいです。選挙で投票するのも大切です。よく見極めて、平和を守り続けてほしいです。
立村さんが登った木製の櫓とは別物だが、同時期に百里原海軍航空隊にあったとされる監視塔。当時の銃撃の跡が今も残っている。→詳細は6ページを参照