- 発行日 :
- 自治体名 : 茨城県小美玉市
- 広報紙名 : 広報おみたま 令和7年8月号
■1945年 百里原(ひゃくりがはら)海軍航空隊への攻撃
―文字と資料が語る戦争―
今年は太平洋戦争終結から80年となります。現在の茨城空港北側にはかつて、百里原海軍航空隊の飛行場がありました。
太平洋戦争末期、米軍は日本の主要都市や軍事施設などを攻撃目標とし、リスト化と綿密な作戦準備の後、攻撃を行いました。
◇1945年7月10日の航空機戦闘報告書
百里原海軍航空隊も米軍の攻撃目標の対象でした。航空機戦闘報告書には、百里原海軍航空隊を攻撃した記録が1945年2月16日から8月15日まで31件あります。日付別で件数が最も多い7月10日の報告書から、米軍が掩体壕(えんたいごう)地域と飛行機を攻撃した記録を紹介します。
「3機の飛行機からなる1個分隊は飛行場の北端にある小さな掩体壕地域を攻撃し、2回目の攻撃は飛行場の真南にある掩体壕地域を、3回目は地上の航空機が最も集まる南東の領域に爆撃機が爆弾を投下した。これら地域では朝に急降下爆撃機が攻撃、9機を破壊し、少なくとも2機が損傷した。(後略)」(航空機戦闘報告書No.65より)
また、1878(明治11)年生まれの方が書いた7月10日の日記には「午前6時頃より敵機来襲(中略)午後2時過ぎより5時半まで引き続き来襲(後略)」とあります。米軍による攻撃が早朝から夕方まで一日通して行われたことがうかがえます。
◇掩体壕(えんたいごう)発掘調査出土品
米軍による攻撃の痕跡は、文字資料だけでなく出土品からも見ることができます。2007(平成19)年、旧百里原海軍飛行場第12・13号掩体壕の発掘調査が行われました。このうち第13号掩体壕では、飛行機の格納部に爆弾の着弾痕とみられる大規模な土坑(どこう)が確認され、爆弾の破片と見られる鉄片も出土しました。
また、第12号掩体壕と比べて機銃弾や飛行機の部品類も多く出土しています。これらから、米軍が掩体壕内に駐機する飛行機を把握し、攻撃したことがうかがえます。
戦後80年が経過し当時の様子を見聞きした世代が少なくなっていく中で、文字資料や出土品といったモノ資料は、小美玉市域にも戦争があった歴史を伝える「語り部」ともいえるでしょう。
(小川資料館 和久法子)
○語句解説
百里原海軍航空隊:1939(昭和14)年、筑波海軍航空隊の分遣隊から独立して開隊。当初は陸上機の初歩飛行訓練に従事したが、1943(昭和18)年から艦爆・艦攻の実用機教程を追加し、大戦末期には特攻隊も編成された。
航空機戦闘報告書:米軍の飛行隊が個々の作戦任務ごとに作成した報告書。米軍機・敵機の情報、攻撃に関する情報など13の項目からなる。
掩体壕:飛行機を敵機の攻撃から守るために造られた格納施設。百里原海軍航空隊の掩体壕は全て無蓋(むがい)(土盛り)のもの。
土坑:発掘調査などで確認される遺構のうち、ある程度の大きさと深さをもった掘り込みのこと。
■見る・知る
小川資料館テーマ展
Targets at the HYAKURIGAHARA
ターゲット・アット・ザ・百里原-戦争の攻防のはざまで-
開催期間:8月9日(土)~9月28日(日)
休館日は月曜日(8月11日、9月15日は開館)、8月12日(火)、9月2日(火)、16日(火)
開館時間:9:30~18:00
8月11日、13~15日、9月15日、23日は17:00閉館
会場:小川資料館(小川図書館2階)
小美玉市小川1664-2 【電話】0299-58-5828
かつて市内にあった百里原海軍航空隊は、昭和20年2月〜8月にかけてたびたび米軍の攻撃を受けました。機銃掃射や爆弾、ロケット弾により、施設内だけでなく周辺地域にも被害が出ました。
終戦から80年目を迎え、戦争を経験した世代が少なくなる中で、戦争を知り、考えるきっかけの一つとしてテーマ展を開催します。米軍の記録や、掩体壕発掘調査の出土品、防空凧の巻取り機などの実物資料と写真から、百里原海軍航空隊への攻撃と防衛の実態に迫ります。
小川資料館職員
和久法子(わくのりこ)さん