- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県真岡市
- 広報紙名 : 広報もおか 令和7年3月号No.838
■芝野愛子(しばのあいこ)さん(中萩在住・91歳)
思い出は泉のように
私は、昭和8年台町で5人きょうだいの3番目、長女として生まれました。
昭和16年12月、小学2年生の時に太平洋戦争が始まりました。小学5、6年生の時は、勉強よりも出征兵士がいる農家で田植えや麦・稲刈りなどをする勤労奉仕をしたほか、登校前にイナゴを取り学校へ持って行きました。学校には兵隊が駐屯しており、馬もたくさんいて、兵隊が町内をまわり茶殻などを集めていました。市内のお寺には東京から集団疎開の学童たちがいましたね。また、衣服や食料は配給制だったので、昼食の時は自宅で芋や大根飯を食べていました。当時、真岡駅付近の自宅の前には道を隔てて、大きな倉庫やSLの機関庫がありました。戦時中、上空からの敵の攻撃を避けるため、建物は乳牛のように黒でまだら模様に塗られ、カモフラージュされていました。昭和20年7月、宇都宮大空襲の夜、真岡にも旧芳賀日赤病院からときわ町にかけて焼夷弾が投下され、まちが火の海となりました。雨が降る中、2歳になる妹を背負った母に手を引かれて台町の川沿いを西郷方面に避難しました。リヤカーや荷車を引いた人がたくさんいたのを覚えています。
終戦後、学校制度が変わり、真岡女子高校併設中学校へ通いました。勉強だけでなく、くわなどを持ち亀山方面の開墾や田植えもしました。また、夏に茶臼岳を登山したり、高校近くの駄菓子屋でポンせんべいを作ってもらい友達と食べたり、土曜の夜に友達と映画を見て、私の部屋で雑魚寝をしたことなど、どれも懐かしい思い出です。当時の真岡の様子はと言うと、大前神社のお祭りでは臨時バスが出て、田町大通りでは初市が行われ、大勢の人でにぎわっていました。高校生の頃は、運動会で「ファスト」を踊りました。また、創立40周年を記念した文化祭では、生徒の作品展示や音楽会、食事の販売が行われ、友人と泊まり込みでうどんの薬味のねぎ切りをしたのも思い出です。うどんは「乙女うどん」と名づけて販売し、人気メニューでした。
そして時が流れ、真岡女子高校の友人12人で五月会というグループをつくり、毎年旅行や新年会などを企画して、学生時代の思い出を振り返りながら、約40年ぐらい楽しいひと時を過ごしました。
現在、私たち夫婦は、令和7年10月で結婚70年になります。夫婦共に健康でプラチナ婚を迎えられたらありがたいです。