文化 那須与一伝承館通信 第92回

■福原図書起請文(ふくわらずしょきしょうもん)(那須家資料)
今回は、那須家資料(全718点)の中から「福原図書起請文」をご紹介します。本資料の法量は縦30.2センチメートル、横47.3センチメートルで、天和(てんな)3(1683)年7月に福原図書(福原資寛(ふくわらすけひろ))が作成しました。本資料で福原資寛は、(1)殿様(那須資弥(なすすけみつ))と主殿様(とのもさま)(那須資徳(すけのり))に対して、私(福原資寛)は少しも後ろめたいことも別心も無く一心に仕えること、(2)決して豪奢(ごうしゃ)な振る舞いはしないこと、(3)この2点を守らない場合は神仏の罰をうけることを誓っています。
天和3年閏(うるう)5月、那須家当主の資弥は幕府に「実子がいないので、津軽家から養子を迎えて那須家の次期当主にしたい」と届け出ます。こうして那須家に迎えられたのが、資徳です。しかし、実は資弥には実子がいたようです。それが、福原資寛です。資寛は母親の身分が低かったため、資弥は実子と認めなかったようです。将来、資徳が家督を継ぐ際に資寛が問題を起こさないため、起請文(本資料)が作られ提出されたと考えられます。
しかし、貞享(じょうきょう)4(1687)年に資弥が亡くなり資徳が家督を継ぐと、資寛は「私は資弥の実子である」と幕府に訴えました。その結果、虚偽申告を理由に那須家は領地を没収され、資徳は罪を許されるまでの13年間を浪人として過ごしました。
結局本資料の内容は、反故(ほご)にされたのでした…。

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